零の夢
その夜、零は夢を見た。
懐かしい匂いがした。
炊き立てのご飯と、味噌汁の湯気。
柔らかな朝の光が差し込むダイニングで、母が「もうすぐできるわよ」と笑っている。
父は新聞を畳みながら、いつもの調子でくだらない冗談を言っていた。
何も特別じゃない、どこにでもある朝。
けれど零の胸は、その何気なさだけで満たされていく。
椅子に座ろうとして、ふと気づく。
自分の隣の席が、ひとつ多い。
そして、リビングの入口に立つ影。
「カズト、何してるの? 早く来なさい」
呼ぶと、彼は少し照れくさそうに笑った。
まるでずっと前からこの家にいたみたいに自然に、零の隣の席へ腰を下ろす。
「おはようございます」
少し緊張した声に、母が優しく笑い、父が肩を叩く。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいんだよ。もう家族みたいなものなのだから。」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
四人で囲む食卓。
他愛ない会話。
箸の触れる音。
笑い声が静かに染み込んでいく。
零は思う。
――これだ。
ずっと欲しかったのは、たぶんこれだけだった。
隣を見ると、カズトがこちらを見て小さく笑っている。
零も笑い返した。
あまりの幸福感に、ふいに涙がこぼれた。
「急にどうしたんだ?」
不思議そうな顔のカズト。
零は小さく首を振り、 「何でもないわよ」と、指で涙を拭ったその時だった。
涙とは違う感触を手に感じた。
その違和感に目を向けると、次の瞬間――
指先からどろりと流れる感触が手を染め上げる。
「えっ」
視界の端で、食卓の色がわずかに滲む。
笑い声が遠くなる。
「零?さっきからどうしたんだよ?」
カズトの声が、すぐ隣で優しく響く。
その温度に縋るように、零は小さく首を振った。
「……なんでもないわ」
さっきと全く同じセリフのはずなのに、違う意味で声が震える。
そう言った瞬間、胸の奥でわかってしまう。
――あぁ、これは夢なんだ。
だからこそ、こんなに優しい。
零はもう一度だけ、三人の顔を見た。
笑っている。
誰も傷ついていない。
血の匂いもしない。
それを焼き付けるように目を細めて――
私に、こんな夢を見る資格があるのだろうか。
散々、他人の人生を奪ってきたのに。
こんなにも血に濡れた手で掴める幸せなんて ...
そう思った瞬間、カズトが零の手を掴んだ。
そして一言だけ、「大丈夫だから」と呟く。
そう言われてカズトに掴まれた手からは、べっとりとしていた血が消えていた。
⸻
「……ん」
目を開けると、見慣れた天井。
隣には静かな寝息を立てるカズトに、零の手はカズトに握られていた。
そこに血はない。
「……バカね。なんて夢みてるんだか。」
小さく呟いて、カズトの胸に額を寄せる。
温もりは確かで、ここが現実だと教えてくれる。
――何があってもこいつの事は守りたい。
そう思った瞬間、胸の奥にかすかな痛みが走った。
守るためなら、自分はまた手を汚すのだろうか。
きっと、戸惑わない。でも、その答えはまだ出さずに、零は静かに目を閉じた。
⸻
朝、零が目を覚ました時には、部屋にはすでに人の気配があった。
カズトが窓際で身支度を整えている。
一度起きたあと、また眠ってしまったらしい自分に気づいて、零は小さく息を吐いた。
「……起こしなさいよ」
「起こしたぞ。二回」
「聞いてないわね」
「だろうな、起きてないんだから」
短い応酬。
いつも通りの距離感。
それだけで、胸の奥のざわつきが少し静まる。
夢の感触はまだ残っている。
けれど、それを口にするほど子供でもない。
零はベッドから起き上がり、軽く髪を整えた。
「急がないと、朝食の準備に間に合わなくなるぞ」
「分かってるわよ。すぐに支度するわ」
⸻
食堂に入り、侍女と一緒に朝食の準備を行う。
少しすると、セレナがやってきた。
「おはようございます、セレナ様」
「おはようございます。二人とも」
実はかなり打ち解けている三人だが、侍女達の目もあるため形式的な挨拶。
けれど声色は柔らかい。
テーブルには朝食が整えられている。
温かいスープ、パン、卵料理。
王族の食事としては質素な方だが、それでも十分すぎるほど整っている。
「いただきます」
セレナの声に合わせて、二人も静かに食事を始めた。
本来なら同じ食卓につくことは許されない立場だ。
それでもこうしているのは、セレナの強い意向だった。
食器の触れる小さな音。
窓から差し込む朝の光。
穏やかで、どこか現実味のある時間。
夢の中の食卓は完璧だった。
でもここには、少しだけ緊張があって、少しだけ距離があって――
その代わりに、確かな「今」がある。
「今日からシオン会長も復帰されますし、生徒会の活動も再開ってことになりますよね?」
カズトが控えめに声を出す。
「そうですね。私達の周りであれだけの騒ぎがあっても、学園は独自の世界で回ってますから。」
「また面倒な小競り合いの仲裁ですかね」
笑いながらのやり取り。
零はそれを聞きながらスープを口に運ぶ。
温かさが体に落ちていく。
夢の残り香が、ゆっくり現実に溶けていく。
(……ちゃんと、ここにいる)
派手な幸福じゃない。
でも、手の届く場所にある日常。
それで十分だと、自然に思えた。
⸻
登校のため城を出ると、朝の空気は少し冷たかった。
セレナの半歩後ろを歩く。
離れすぎてもいない、今の関係そのものの位置。
「今日、学園が終わったら少し付き合ってもらうかもしれません」
セレナが振り返らずに言う。
「かしこまりました」
カズトが答え、零も小さく頷く。
零は横目でカズトを見た。
特別な言葉はない。
けれど、それでいいと思えた。
夢の中の幸せは、触れれば壊れそうだった。
でも今のこの時間は、不格好でもちゃんと続いていく。
三人の足音が、石畳の上で静かに重なった。




