異変⑤
セレナの身体は、カズトの腕の中で力なく揺れ、やがて静かな寝息を立て始めた。
「セレナ様!」
零が慌てて声を上げるが、彼女の意識はすでに深いところへ沈んでいる。
「零、ひとまずベッドへ。落ち着くまでは、ここで休ませるしかない」
カズトはそう言いながら、慎重に彼女を運び、保健室の簡易ベッドへ横たえた。
その顔は、先ほどまでの張り詰めた表情から一転し、あまりにも無防備だった。
「あんたの推測、もし本当なら最悪よ」
零は低い声で言った。
「わたしたちは、敵の掌の上で踊らされている。しかも、セレナ様自身が最も都合のいい駒ってわけ」
カズトは答えず、セレナの額に浮かんだ薄い汗を見つめる。
「今の彼女の精神状態で、これ以上踏み込むのは危険だ。
一度、城に戻ろう。少なくとも、ここより安全だ」
「そうね」
零もすぐに頷いた。
「もしシオン会長が絡んでいるなら、セレナ様は最大の人質であり、同時に最大の標的。
城にはマリアもいるし、護衛も厚い。今は撤退一択よ」
零はそう言うと、床に転がっていた上級生へと向き直り、縄を切る。
「あんたはもういいわよ。せいぜい殺されないように逃げることね。」
「マリーさんは一緒に来てくれ。ここに置いていったら、口封じされる可能性が高すぎる」
カズトが視線を向けると、マリーは青ざめた顔で小さく頷いた。
「……お願いします」
その声は、震えていた。
カズトはセレナを背負い、零が前に立って周囲を警戒する。
保健室を出る瞬間、誰もが同じ予感を抱いていた。
――このまま、何事もなく帰れるはずがない。
そして、その予感は最悪の形で的中する。
校門のすぐそば。
まるで最初からそこで待ち伏せていたかのように、一人の女性が通りがかった。
公爵令嬢としての気品を纏い、柔らかな微笑みを浮かべた――
シオン・ヴァルフレア生徒会長。
「あら、カズトさんに零さん?
それに……セレナちゃん!?」
シオンは驚いたように目を見開き、すぐに駆け寄ってくる。
その仕草には、計算や警戒の色は一切なく、ただ純粋な動揺だけがあった。
「一体、どうしたというの!?」
彼女の視線が、カズトの背中でぐったりとしたセレナを捉える。
「カズトさん、何があったのですか!? 誰かに襲われたの? それとも……」
シオンの細い指先が、そっとセレナの頬に触れる。
その動きは、あまりにも自然で、あまりにも優しかった。
妹を案じる姉、そのもの。
(……本当に、この人が?)
カズトの脳裏を、先ほど立てた仮説がよぎる。
だが、目の前の瞳は澄み切っていて、そこに悪意の影を見出すことができない。
(変に動揺しないで。自然にしなさい)
零の小さな合図に、カズトは我に返る。
「あ、いえ。急にセレナ様の体調が悪くなってしまって。
保健室で休ませたんですが、顔色も良くないので、一度お城へ送り届けようかと」
「……そうでしたか」
シオンは安堵したように息を吐き、すぐに頷いた。
「セレナちゃんは昔から、責任感が強すぎて無理をしてしまうところがありますから。
わたしも付き添います。馬車を手配させましょう」
「い、いえ!」
カズトは反射的に声を上げる。
「会長はお忙しいでしょうし、俺たちだけで大丈夫です。
セレナ様も、『会長に心配をかけたくない』と仰っていましたから」
一瞬、シオンの表情が揺らいだ。
それは悲しみか、寂しさか――あるいは別の何かか。
「……そうですか」
やがて、彼女は柔らかく微笑んだ。
「ええ。セレナちゃんらしいわね」
シオンは一歩下がり、深々と頭を下げる。
「カズトさん、零さん。
セレナちゃんを……私の大切な妹を、どうかよろしく頼みます」
三人は無言で頷き、その場を後にした。
背後から注がれる視線。
それが単なる親愛によるものなのか、それとも――
盤面から駒が離れる瞬間を、静かに見送る者のそれなのか。
カズトには、最後まで判別ができなかった。




