番外編 疾風の侍女長
とある夕食時。
「改めて気になってたんですけど、マリアさんって、どうしてセレナ様の侍女になったんですか?あ、もし言えない理由なら、無理に聞きません」
カズトの率直な問いに、セレナはどこか楽しげな目をする。
「別に秘密というほどのことではありませんよ?
マリアは『疾風』の二つ名で知られていましたし、界隈では有名人でしたから」
「セレナ様、その呼び名はお控えください。私にとっては、未熟だった頃の名残に過ぎません。今はただ、あなたをお支えする一介の侍女です」
淡々と語るマリアの所作には、一切の無駄がない。
その理由を、カズトは今になってようやく理解した。
「疾風のマリア...。
昔、組織にいた頃に噂で聞いたことがあるわね。風のように舞いながら、音もなく標的を仕留める凄腕がいるって。
確かとんでもない美人だって話もセットだったけど、まさか本人だったとはね」
零はそう言って、改めてマリアを見つめる。
敬意と、ほんの少しの対抗心がその視線に混じっていた。
「セレナ様の言う通り、隠してるわけではいないのですが、やはり自分の話は少し恥ずかしいですから。
...当時、冒険者という生き方は、私が思っていた以上に心身を削っていました。」
マリアは静かに語り始める。
「依頼を受けて、魔物や盗賊を討ち、遺跡を探索し、報酬を得る。
確かに充実はしていましたが、ある依頼で王宮を訪れた際、まだ幼いセレナ様とお会いしたのです」
その視線は、遠い過去の情景をなぞるように虚空を彷徨った。
「当時の王宮は今よりも権力争いが激しく、誰にも心を開けずにいた小さな王女様が、私の風魔法を見て、初めて笑ってくださいました」
その一瞬を、今も宝物のように鮮明に覚えているのだろう。彼女の纏う空気が、一瞬だけ母親のような慈愛に満ちた。
「その時、地位やお金の為に剣を振るうことよりも――
この笑顔を隣で守り続ける方が、私の人生にとって価値があると、そう思ったのです」
「本当に驚きましたよ。あなたが冒険者ギルドに引退届を出して、いきなり専属侍女志望として現れた時は」
セレナがくすりと笑い、当時の混乱を思い出す。
「お父様なんて、私がいきなりSランク戦力を侍女にするって言うから腰を抜かしていました」
「お騒がせいたしました」
マリアはそう言って、小さく頭を下げた。
一人の笑顔を守るために、Sランクの地位を捨てる。
その選択の重さに、カズトは改めて胸を打たれる。
「ですから、私が今守るべきはセレナ様です。
たとえ相手がムカデであろうと――私の風が届く限り、不遜な真似は許しません」
一瞬だけ、食堂の空気が凍りついた。
鋭利な刃物で喉元を撫でられたような、純度の高い殺気が刹那に弾け、そして消える。
視線を向けるとマリアはいつもの穏やかな微笑に戻り、何事もなかったかのように茶器を片付け始めていた。
「もっとも、今のカズトさんや零さんと正面から戦えば、私の方が負けるでしょう。
年齢もありますし、すでに引退した身ですから」
「嘘おっしゃい。
さっきの殺気、どう見ても衰えてる人間のそれじゃないでしょ」
先ほど肌に触れた死の予感は、いまだ消えていないほどに強烈だった。
マリアは困ったような笑みを浮かべ、カズトに視線を向けた。
「ですが事実です。
今のお二人が噛み合えば、私では敵いません」
「私にできるのは、2人が完成するまでの、ほんの少しのお手伝いだけですよ」
「マリア。私のためにも、2人の、特にカズトへの指南はよろしくお願いしますね。」
セレナが釘を刺す。
「彼は、まだまだ鍛える必要がありますから」
「心得ております」
マリアは一礼した。
「さあ、夜も更けてきました。
今夜は皆様、ゆっくりお休みください」
その言葉に促され、その夜は解散となった。
⸻
深夜。静まり返った奴隷部屋。
一つのベッドで、カズトと零は薄暗い天井を見つめていた。
「なあ、零。
マリアさん、正面からなら負けるかもって言ってたけどさ。俺って今、客観的に見てどのくらいなんだろうな」
「さあね。
少なくとも、学園の温室育ちに負けるレベルじゃないわ」
少し間を置いて、零は続ける。
「でも、シンさんに勝てるかって言われたら無理。
あれは人間じゃない。歩く災害よ」
布団の中で身をよじり、零はカズトの方へ向き直る。
暗がりの中で、彼女の瞳だけがわずかに光った。
「ただし、あんたの成長速度は正直異常。
才能あふれる人が何年もかける領域を、数ヶ月で、しかも実戦で身につけてる」
「死んでないのが不思議なのよ。控えめに言って、普通じゃないわ」
「……でもさ。
目の前で何もできないまま終わるの、もう嫌なんだ」
零は少し黙り込み、そっと彼の腕に手を重ねた。
指先から伝わる体温が、やけに熱い。
「だったら、もっと強くなりなさいよ」
小さく、しかし真剣に。
「マリアさんの謙遜を、本当の意味にするくらいにね。
あんたが強くなれば……私も、もっと安心して頼れる」
そう言って、彼女は懐に潜り込んできた。
「今日は特別。
あんたが眠るまで、こうしててあげる」
その温もりを感じながら、カズトは静かに眠りにつくのだった。




