砕かれた平穏①
穏やかな平和が崩れ去る事件が起こったのは、それから少ししてからのことだった。
カズトが休暇を過ごしていたある日、慌ただしい足音が廊下に響き、部屋の扉が乱暴に開け放たれた。
何事かと視線を向ければ、そこには肩を大きく上下させ、息を切らしたセレナとマリアが立っていた。
「セレナ様、そんなに慌ててどうしたのですか?」
「...落ち着いて、、聞いてください」
セレナは乱れた呼吸をどうにか整え、痛みを堪えるような表情で口を開いた。
「……零が、攫われました」
「……は?」
一瞬、耳にした言葉の意味が脳に届かなかった。
攫われた? 零が? 誰に? どうやって?
戦技祭では勝利したとはいえ、それはあくまでルールの下での話だ。
生死を賭けた実戦、ましてやアルケミストの力を使用した零の実力は、今でも自分より上だという自負がある。
しかも殺されたのではなく、拘束され、連れ去られた。
その異常な事態に思考が追いつかない。
「今日、急遽『百足』の情報が入ったため、調査を兼ねて零を向かわせました。……ですが、それが罠だったようです。待ち伏せしていた組織の連中に、襲撃を受けました」
「いや、それでも今の零を制圧できる奴なんて!」
「ええ、私もそう信じていたので1人で送り出しました。
……完全な、私の油断です。
現場に残された痕跡から推測するに、襲撃者は序列上位の幹部。
それも、一人ではない可能性があります」
殺すよりも、生け捕りにする方が遥かに困難だ。
組織を抜けた時点で序列五位。
その後も研鑽を積み、当時を凌ぐ強さを得た零を無力化するには、それを上回る実力者が複数人でかかったとしか考えられない。
『正式に難易度調整が必要だって組織に報告しておくよ』
ふと、かつて幹部のクレイに言われた言葉を思い出した。
あの時はてっきり狙われるのはセレナの方であると思って動いていたのに、零を狙ってくる事はカズトにとっても予想外だった。
(狙いの優先順位を変えられた?確かにセレナ様を狙うよりも周囲の護衛を単独で落としていく方が確実だ。くそっ、なんでその発想にならなかったんだ!)
「...零を助けに行きます!」
「待ちなさい!」
激情に突き動かされ、部屋を飛び出そうとした彼の背中に、セレナの制止が飛んだ。
「零を攫うほどの相手に、今のあなただけで何ができるというのですか!このまま向かえば、返り討ちに合うのは目に見えています!」
「そんなの、やってみなきゃ分からねえだろ!いいから場所を教えてくれ!」
飛び出そうとするその腕をマリアが掴み取る。
激昂した彼の全身からは、制御を失った雷がバチバチと漏れ出していた。
自分を拘束するマリアすら、反射的に攻撃しかねないほどの殺気が部屋を充満させる。
――パァン!
乾いた音が室内に響き渡る。
静かに歩み寄ったセレナが、彼の頬を平手で叩いたのだ。
「......落ち着きなさい。……零が攫われた責任は、私にあります。私をどれほど責めても構いません。
でも、あなたまで失うわけにはいかないのです」
セレナの瞳もまた、今すぐにでも駆け出したいという焦燥に揺れていた。
それでも理性で必死に繋ぎ止め、言葉を続ける。
「殺されずに連れ去られたということは、何らかの目的があるはずです。
それが判明するまで、無策な特攻は許可できません」
生かされているという事実が、唯一の希望であること。それは理解できる。
しかし、組織の醜悪さを知っている身としては、零の「生存」が何を意味するのかを想像するだけで、肺を焼くような焦燥が止まらなかった。
「……俺は、どれだけ強くなっても……まだ、あいつ一人守れないのかよ……っ!」
床に崩れ落ち、嗚咽が漏れる。
守ると誓った。共に歩むと決めた。
なのに、最も必要な時に隣にいられず、助けに行く力すらない。
その残酷な事実が、カズトを絶望の底へと突き落とす。
「...だったら、今よりもっと強くなりなさい」
セレナが膝をつき、震える手を両手で包み込んだ。
「どんな理不尽が襲ってきても、全てをなぎ払い、守り通せるほどに。あなたには、その力があるはずです」
そんなことは分かっている。弱いなら、強くなればいい。
だが、短期間で零よりも強い可能性のある幹部複数人を相手取れるほどの跳躍があるとは思えなかった。
己の限界を知るからこそ、言葉が出ない。
「これは偶然の、いえ、天が与えてくれた好機かもしれません。……間もなく、シンが帰ってきます」
「……!」
かつて、自分に地獄を見せたあの男。
王国最強と謳われるSSランク冒険者の帰還。
その存在は、不可能と思われた救出劇を、にわかに現実味のあるものへと変えた。
「ですが、シン一人で無事に零を連れ戻せる保証はありません。……だからこそ、あなたはシンから、今の限界を超える術を学びなさい。多少の無理を承知で、最短で強くなる方法を。その間に、私の方で必ず零の居場所を突き止めます」
あの規格外の存在であれば、常識の外側にある強さへの道を知っているかもしれない。
たとえそれがどれほど危険な道であっても、零を取り戻せる可能性があるのなら、地獄へだって二度でも三度でも飛び込んでやる。
消えかけていた瞳に決意の火が再び灯った。
◇
シンが帰還するまで、カズトは自室からの外出を禁じられた。
見張りとして側に付いたのはマリアだった。
最初にカズトが「さっきはすみませんでした」と一言謝って以降、部屋には重苦しい沈黙が続いていた。
「夜にはシン様が戻られます。そこからは夜通しの動きになるでしょうから、今のうちに少しでも眠っておいてください」
強くなる方法が分かり次第、すぐに動かなければならない。
それが深夜になる可能性を考えれば、今のうちに体力を温存しておくべきだというマリアの言い分は正しい。
だが、今のカズトにそんな余裕などあるはずもなかった。
「……こんな時に、寝られるわけないでしょう」
動きたくても動けない。
待つしかないと頭では理解していても、込み上げる苛立ちを抑えきれなくなっていく。
「それでも寝てください。今はそれが最善です」
淡々と事実だけを告げるマリアの態度に、ついに感情が爆発した。
「零がムカデに捕まってるんだぞ!今この瞬間、何をされてるかもわからないのに、なんでそんなに冷静でいられるんだ!」
彼はたまらずマリアの胸ぐらに掴みかかった。
だが、マリアは表情一つ変えず、ただ静かに彼の目を見つめ返した。
「何もできないのですから、ここで暴れても意味はありません。……それで零さんが助かるというのなら、私も一緒に暴れましょう」
「...わかってるよ……わかってるけど……!」
周囲が零を心配し、救出のために動いてくれていることは分かっている。
それでも感情を制御できない自分の未熟さが嫌だった。
自分がどれほど零という存在に依存していたのかを、今さらながらに思い知らされる。
言葉が続かず、掴んだ手に力を込めて震えることしかできない彼の頭を、マリアはそっと抱き寄せた。
「何もできないのは、苦しいですよね。襲われたのが自分ならよかったのにと……私だってそう思います。今の王宮にとって、零さんの価値は私よりもずっと大きいです」
「何を……」
事実、元『ムカデ』の幹部であり、実力的にもマリアを上回る零は、情報源としても戦力としても代えのきかない存在になっていた。
元Sランクとはいえ、一線を退いた身であるマリアよりも、王宮からすれば優先順位は上なのだろう。
胸に押しつけられた彼の耳には、マリアの不規則な鼓動が聞こえていた。
それだけではない。
普段は静かな彼女の魔力も、その奥底では激しく乱れているのが伝わってきた。
マリアとて、零とは浅い中ではない。
寝食だって共にして、一緒に修行だって何度も行った。お風呂にだって入った。
すでに身内のような関係性が出来つつあったのだ。
「これから先は、きっと今まで以上に険しい道が待っています。だから、今だけでも泣いていい。弱音も吐いてください。私を殴って気が済むのであれば、いくらでも殴ってください。……私たちの希望を、勝手にあなたに託すのですから」
マリアには、零を助け出す力はない。
だから彼に託すしかない。せめて、彼の怒りの捌け口になることくらいしか自分にはできない。
そんな痛切な思いが伝わってきた。
「俺は……あいつに、守るって言ったんです。必ず強くなって守ってやるって。でも、心のどこかで……零は強いから大丈夫だって、そう思ってました」
「はい。実際、零さんはとても強い方ですから」
彼は少しずつ、胸に溜まった澱を吐き出し始めた。
「戦技祭で、ようやく少しは並べたと思ってたのに。肝心な時に何もできない。何の役にも立たない……俺は、まだこんなにも弱い……!」
「大丈夫です。あなたなら、必ず誰よりも強くなれます。指導した私には分かりますから」
声を上げ、己の無力さを嘆く彼の頭を、マリアは優しく撫で続けた。
しばらくして、彼はマリアの膝を枕にするような形で眠りに落ちた。
感情を吐き出したことで落ち着いたのか、あるいは張り詰めていた精神が限界を迎え、防衛本能が働いたのかもしれない。
カチャリと小さな音を立てて扉が開くと、セレナが入ってきた。マリアが目で状況を伝えると、セレナも察したようにその横へ座る。
「……カズトは、大丈夫でしょうか」
「はい。今は精神が乱れていますが、目的が定まればきっと前だけを見て進んでいくでしょう。それまでは、とにかく休ませるしかありません」
「そうですね。……このあとは、休んでいる暇すらなくなってしまいますから。彼も、私たちも」
セレナは眠る彼の顔をじっと見つめ、静かに決意を口にした。
「この国に、そしてこの私に喧嘩を売ったことを、必ず後悔させてやります」
作戦を成功させるには、一刻も早く、正確な情報が必要だ。
情報収集にはマリアも動く予定であり、これから先、連日眠れぬ夜が続くことは容易に想像ができた。
いつまで経っても本気で戦えない零には申し訳なく思う。




