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皇帝、行軍します

 太陽が昇るよりもずっと前、私は目を覚ました。


 周りの大人たちが用意してくれたのは、絹がこれでもかと張られた紫色の豪華な天幕。けれど、中で寝ている私はいつも通り、固い布の寝袋を床に敷いて寝ていた。ふかふかの寝具はどうにも落ち着かないのだ。


「ふあ……」


 小さなあくびを噛み殺しながら、私は天幕の外へ這い出た。

 夜明け前のキャンプ地は、ひんやりとした霧に包まれていて、どこか神殿の朝に似ている。


 私は東の空に向かって正座し、静かに手を合わせた。まずは神様。これだけは世界のどこへ行こうが変わらない、私の絶対のルールだ。


「……エル・ガバル、今日もみんなを暖かく照らしてください」


「へ、陛下!? 早朝から何をしておられるのですか!」


 背後から、慌てたような声がした。振り返ると、槍を持った見張りの若い兵士が、目を見開いて私を見ていた。まだ十代後半くらいだろうか、頬に少し幼さが残っている。


 私は立ち上がり、衣服についた草を払いながら微笑みかけた。


「おはようございます。神様にお祈りをしていたんです。今日も良い天気になりそうですね」


「お、お祈り……。我らの勝利を、ですか?」


「いえ、今日も無事に太陽が昇るように、です」


 兵士は一瞬呆然とした後、じわっとその目を潤ませた。


「なんと……。世界のすべてを照らす神への感謝……。それこそが、我らの新たな光、アントニヌス陛下の加護なのだ! ありがたき幸せ!」


「そうですね、神様の加護は素晴らしいです」


 私が素直に頷くと、兵士は感激のあまりその場に直立不動になった。私はただ天気のプロローグを話しただけなのだが、この軍隊の人たちはどうしてこうも熱いのだろう。


 やがて本格的な行軍が始まった。

 私は数万人の軍団のちょうど真ん中に配置され、四方をがっしりとした盾を持った兵士たちに囲まれて歩いていた。周りの将兵たちは、いつ敵の奇襲があるか分からないとばかりに、ギラギラした目で周囲を警戒している。


 一方で、私は完全に巡礼旅行の気分だった。


「皆さん、毎日こんなに重い鎧を着て歩くんですか?」

 近くを歩く髭面の兵士に話しかけてみる。


「はっ! 陛下、我ら軍団兵は一日五マルカ(約三十キロ)の道を歩くのが義務であります!」


「すごいです。健康に良さそうですね。足腰が鍛えられて、神殿の階段掃除もあっという間に終わりそうです」


「け、健康……! 陛下は我らの苦難をそのように前向きに捉えてくださるのか!」


 兵士たちの間に、じわじわと感動が広がっていくのが分かった。

 実際は戦争という血生臭いものに向かっているのだが、私の頭の中では「ローマの大きな神殿へみんなでお参りに行く大名行列」のようなものだった。


 お昼時になり、全軍が一時停止して休憩に入った。

 将軍たちが「陛下、こちらに特製のキジのローストと極上のワインを」と、わざわざ運んできてくれたのだが、私はそれを見て小さく首を横に振った。


「いえ、みんなと同じで良いです。そっちの、固そうなパンをください」

「な、なんと!? しかしこのような兵卒の食べる麦のパンなど……」

「シリアの神殿でも、お供え物の残りの固いパンを食べていましたから。それに、そっちの豪華なお肉は香辛料が強すぎて、お腹を壊しそうなんです」


 本当のことを言っただけだった。脂っこい宮廷料理より、素朴なパンの方が胃に優しい。

 だが、近くで干し肉を齧っていた兵士たちが、一斉に動きを止めた。


「陛下が……我らと同じ泥臭いパンを食べておられる……」

「贅沢を極める現皇帝マクリヌスとは大違いだ!」

「やはり、この御方こそが真の皇帝だ!」


 ただの偏食なのだが、彼らの目には「兵士と苦楽を共にする聖人」として映ったらしい。


 さらに喉が渇いたので、私は自分の水袋から水を飲んだ。ふと横を見ると、さっきの朝の見張りの若い兵士が、暑さでふらふらになりながら唇を乾かしているのが見えた。


「はい、これ。どうぞ」

 私は自分の水袋を彼に差し出した。


「へ、陛下!? 滅相もございません、皇帝陛下の御水を兵卒の私がなど――」


「いいから飲んでください。熱中症になったら大変です。神様も、喉が渇いた人に水を分けるのは良いことだと仰っています」


 無理やり水袋を握らせると、若い兵士は震える手でそれを口に運んだ。周りの兵士たちが、まるで神話の奇跡でも見るような目でその光景を見つめている。


「陛下が……私に水を……。この水袋は我が家の家宝にする……」

「なんという慈悲だ」

「後世の歴史家に必ず書き残させねばならん!」


 彼らの間で、ありもしない「聖人皇帝」の伝説がリアルタイムで編まれていく。私はただ、目の前の人が倒れそうだから助けただけなのに、意味が分からなくて首を傾げるしかなかった。


 その日の夜。軍隊は広大な荒野に、臨時のキャンプを設営した。

 何千もの焚き火がパチパチと音を立て、夜空に向かって煙を伸ばしている。


「遠足みたいですね」

 私が呟くと、同行している将軍の一人が盛大に溜め息をついた。

「陛下、これは遠足ではなく、国家を二分する内乱の行軍でございます……。明後日には、マクリヌス帝の先遣隊と衝突する可能性すらあるのですぞ」


 将軍たちは作戦会議でピリピリしていたが、私は天幕の外に出て、満天の星空を見上げていた。


「綺麗だな……」


 不意に、すぐ近くの暗がりに、昼間のあの若い兵士が立っているのに気づいた。彼はそわそわと落ち着かない様子で、槍を握る手がわずかに震えている。


「あ、陛下。夜風は体に障りますよ」


「平気です。……ねえ、あなた」私は隣に並び、星空を指差した。「ローマへ行く道でも、同じ太陽が昇り、同じ星が見えるんですね。そう思うと、世界はどこへ行っても神様の手のひらの上なんだって、安心しませんか?」


 若い兵士は、少し俯いて声を絞り出した。

「……陛下は、怖くないのですか」


「何がです?」


「戦争です。これから、たくさんの人が死ぬかもしれない。我らも、明日の命は分かりません。それなのに、陛下はどうしてそんなに穏やかでいられるのですか」


 彼の問いに、私は少しだけ考えた。

 死ぬのは、もちろん嫌だ。神様がくれた大切な命だから。


「怖いですよ」私は正直に言った。「でも、戦う皆さんの方が、もっと怖いですよね。私は後ろで守られているだけですから。皆さんの恐怖に比べたら、私の怖さなんてちっぽけなものです」


 兵士がハッと息を呑み、私を見た。


「だから、私は神様に祈ります」私は彼に向かってにっこりと笑いかけた。「皆さんが一人も怪我をせず、無事に家族の元へ帰れるように。それしか私にはできませんから」


 若い兵士の目から、今度こそ大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。彼はその場に深く、深く、敬意を込めて頭を垂れた。その背中は、さっきまでの震えが嘘のように、すうっと落ち着いていた。


 夜が更け、焚き火の周りでは、兵士たちの間で一つの噂が爆発的な勢いで広まっていた。


『新しい皇帝陛下は、誰よりも先に神へ祈りを捧げられる』

『配給の固いパンを笑顔で食し、飢えた兵卒に自らの水を分け与えられた』

『そして、我ら兵士の命のために、夜を徹して涙を流し、神に祈ってくださっている』


 ――やはり、あの御方は本物の聖人だ。我らは命を賭して、あの御方をローマの頂点へ押し上げるのだ!


 天幕の中で、私は「明日はお腹を壊さないといいな」と思いながら、すやすやと眠りについていた。自分の評価が天を衝くほど跳ね上がっていることなど、一ミリも知らずに。


 その頃、遥か彼方の荒野の向こう。

 暗闇を引き裂いて、現皇帝マクリヌスの本陣へと一騎の伝令が駆け込んでいた。


「報告! 反乱軍が動きました! シリアの神殿より現れた新たな皇帝候補――マルクス・アウレリウス・アントニヌス、数万の軍勢を率いてこちらへ進軍中!」


 運命の歯車が、私の知らないところで、凄まじい音を立てて回り始めていた。

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