特別番外編十 危険届の裏面
危険届には、表と裏がある。
表には、行き先、目的、同行者、帰還予定、代替案、使用する救助具、予想される危険を書く。
これは誰にでも見せる欄だ。実務のために必要で、読みやすく、余計な感情は入れない。
裏には、一行だけ自由記入欄がある。
『戻ったら、何をするか』
この欄を作ったのは、ニナだった。
最初、マルタ隊長は反対した。
「危険届に私情を書くな」
ニナは珍しく引かなかった。
「私情ではありません。戻る理由の確認です」
「戻る理由は任務完了で十分だ」
「それだけだと、任務が終わらないと戻れません」
会議室が静かになった。
ニナは続けた。
「任務が途中でも、戻る判断をしなければならないときがあります。そのとき、戻った後にすることが書いてあると、戻ることを失敗だけにしなくて済みます」
マルタ隊長は腕を組んだ。
長い沈黙のあと、言った。
「……試験導入」
それは、ほぼ採用という意味だった。
以来、危険届の裏には様々な一行が増えた。
『戻ったら、靴下を乾かす』
『戻ったら、母に手紙を書く』
『戻ったら、壊れた刷毛を直す』
『戻ったら、木苺パイを食べる』
『戻ったら、寝る。絶対に寝る』
最後の一行は、コレットが書いた。
ノアはそれを見て、非常に満足そうにした。
「良い危険届です」
「そんなに嬉しそうにしなくても」
「あなたが絶対に寝ると書面で約束したので」
「法的拘束力はありません」
「夫婦間拘束力があります」
「聞いたことのない力です」
リネットはその会話を記録しようとして、ニナに止められた。
ある冬の日、北坑道で小さな事故が起きた。
大きな落盤ではない。古い支柱が折れ、奥の点検班が一時的に戻れなくなった。
救助隊はすぐに動いたが、現場の状態が悪く、予定より時間がかかった。
若い隊員の一人が、途中で奥へ進みすぎようとした。
「もう少し行けば声が聞こえます」
彼はそう言った。
マルタ隊長は止めた。
「支え木が足りない。戻れ」
「でも、あと少しで」
「戻れ」
隊員は悔しそうに唇を噛んだ。
そのとき、彼の胸ポケットから危険届の写しが落ちた。
裏には、こう書かれていた。
『戻ったら、妹の誕生日のリボンを買う』
隊員はその紙を見た。
そして、ゆっくり息を吐いた。
「戻ります」
その判断で、二次崩落に巻き込まれずに済んだ。
点検班は別の迂回路から救助された。
時間はかかったが、全員が戻った。
翌日、隊員は妹のために赤いリボンを買った。
彼は報告書の最後に、少し乱れた字で書いた。
『戻る理由を書いておくと、戻るのが恥ずかしくありませんでした』
その報告は、危険届の裏面を正式採用にする決め手になった。
コレットは会議で言った。
「救助に必要なのは、前へ進む勇気だけではありません。戻る勇気も必要です」
マルタ隊長は渋い顔で頷いた。
「戻るのが下手な奴は多い」
「隊長もですか」
ニナが聞くと、マルタ隊長は黙った。
その沈黙が答えだった。
危険届の裏面は、養成院の教本にも載った。
生徒たちは最初、照れくさそうに書く。
『戻ったら、夕食を食べる』
『戻ったら、先生に報告する』
『戻ったら、失敗したことを隠さない』
エラは、初めての遠方実習でこう書いた。
『戻ったら、怖かったことをちゃんと話す』
ユリスはこう書いた。
『戻ったら、台帳の字をもう少し大きく書く練習をする』
リネットにも危険届が作られた。
救助具に危険届が必要かどうかは議論になったが、コレットは作った。
リネットの裏面には、本人の希望でこう書かれた。
『戻ったら、記録糸を整理する』
それを見たミナが言った。
「とてもリネットらしいですね」
リネットは答えた。
「戻る理由は、整理可能であることが望ましいです」
「私は、整理できない理由も好きですよ」
「例えば?」
「戻ったら、安心する、など」
リネットは少し首を傾げた。
翌月、リネットの危険届の裏面には、新しい一行が加わった。
『戻ったら、コレットが安心します』
コレットはその一行を見て、しばらく何も言えなかった。
道具に感情を与えすぎてはいけない。
それでも、糸の先で誰かが安心するなら、戻る理由としては十分だ。
危険届の裏面は、今日も使われている。
それは英雄的な書類ではない。
むしろ、とても生活に近い。
夕食。
手紙。
靴下。
誕生日のリボン。
怖かった話。
安心。
けれど、人はそういう小さなもののために戻ってくる。
そして戻ってきた人が、また次の誰かへ手を伸ばす。
だから危険届の裏面には、余白が必要だった。
命を守る理由は、いつも制度の言葉だけで書けるとは限らないからだ。




