特別番外編九 最後ではない注文書
完結という言葉は、工房には向いていない。
物語なら、最後の一文で本を閉じられる。
けれど工房では、閉店間際に必ず誰かが扉を叩く。
その日も、夕暮れに注文書が届いた。
差出人は北東の漁村。
内容は、冬の海で網に絡まった人を助けるための救助具相談だった。
「海ですか」
ニナが言った。
「水とは違いますね。塩、波、冷え、流れ。東部湿地の経験は使えますが、そのままでは足りません」
ミナは医療箱の中身を想像している。
「低体温対策が必要です。温め方を間違えると危険です」
サヤからの通信札には、すぐに返事が来た。
『塩は砂より意地悪。布を硬くする。油も変えること』
マルタ隊長は腕を組んだ。
「冬の海には、山の根性論は通じない」
レオンス殿下は、王都から法規資料を送ってきた。
『港湾での救助具使用について、漁業権と港の安全規則を確認する必要あり』
ノア様は地図を広げた。
「また新しい土地ですね」
「ええ」
私は注文書を見た。
依頼主の字は荒い。
おそらく、漁師が誰かに習いながら書いたものだろう。
『声は聞こえるのに、波が強くて近づけないことがあります。糸が海にも届くなら、相談したい』
砂漠の依頼状と似ていた。
声は聞こえるのに、手が届かない。
世界には、まだそんな場所がいくらでもある。
私は白い型紙を取り出した。
母の糸で縫った袋から出すと、紙はまだまっさらだった。
「名前は?」
エラが尋ねる。
「まだ決めません」
「海糸鳥?」
「悪くないけれど、先に現地を見てから」
「今度は私も行けますか」
彼女の目は真剣だった。
「危険届を書いて、訓練を通ったら」
「書きます」
ユリスも手を上げた。
「本人確認係も必要ですか」
「港では必要になると思う」
「では、行きたいです」
リネットが新しい記録糸を準備する。
「塩対策を要求します」
「分かっているわ」
「駱駝対策は不要ですか」
「港に駱駝はいないと思う」
サヤから追加の通信が来た。
『港町には荷運び駱駝がいる場合あり。油断しない』
工房に笑いが起きた。
私は注文書の端へ、最初の一行を書いた。
『冬海用救助具。現地調査前。分からないことを分からないまま記録する』
完結後にも、注文書は来る。
救助は終わらない。
けれど、それは物語が未完成という意味ではない。
人の生活が続くから、困りごとも続く。
困りごとが続くから、工房の灯も続く。
私は窓の外を見た。
夕暮れの空に、糸燕が一羽だけ残っている。
風に揺れながら、それでも落ちずにいる。
「明日、会議をしましょう」
私が言うと、全員がうなずいた。
ノア様が微笑む。
「また忙しくなりますね」
「はい」
「嬉しそうです」
「少し」
私は白い型紙を押さえた。
最初の物語は、ここで閉じていい。
けれど、糸はまだ切らない。
次の誰かの手に届くよう、長めに残しておく。




