特別番外編八 母の針箱
アーヴェル家から、古い針箱が届いた。
差出人は父ではない。家令だった。
短い手紙には、こう書かれていた。
『奥方様の遺品整理にて、別室の壁裏から見つかりました。旦那様のご意向により、ルブラン夫人へお届けいたします』
母の針箱。
私はしばらく蓋に手を置いたまま、開けられなかった。
母は、私がこの世界で最初に針を教わった人だ。
細い指で布を押さえ、糸を引きすぎないように、と何度も言った。
『強く引くと、布が泣くわ』
幼い私は、布が泣くという表現が好きだった。
大人になってから、その意味が分かった。強すぎる糸は、布を歪ませる。綺麗に見えても、着る人の体に合わなくなる。
蓋を開けると、古い匂いがした。
乾いた木。
少しだけ香油。
長く使われていなかった鉄の匂い。
中には、針、糸巻き、小さな鋏、指貫、そして何枚かの型紙が入っていた。
型紙の端に、母の字がある。
『コレット、七歳。袖を短く。動きやすく』
胸が詰まった。
王太子妃になるための豪華なドレスではない。
子どもが転ばず、腕を上げやすく、庭で走れるように直した服の型紙だ。
母は、私を役ではなく子どもとして見ていた。
それを、忘れかけていた。
針箱の底には、小さな布包みがあった。
開くと、白い糸と一枚の紙。
『この子が、いつか私のいない場所で縫うなら、ほどけにくい糸を残しておく』
日付は、母が亡くなる半年ほど前だった。
私は椅子に座り、紙を膝に置いた。
涙はすぐには出なかった。
ただ、長い間ほどけなかった結び目が、少し緩むような感覚があった。
ノア様は黙って隣に座った。
何も言わないでいてくれる人がいることは、ありがたい。
しばらくして、私は白い糸を指に巻いた。
「この糸、使うべきでしょうか」
「あなたが決めてよいと思います」
「使ったら、なくなります」
「使わなければ、残ります」
「どちらが良いのでしょう」
「糸に聞くなら、使われたいかもしれません」
私は少し笑った。
「ノア様が詩人みたいなことを言いました」
「慣れないことをしました」
その日の夜、私は母の白い糸を少しだけ使った。
全部ではない。
ほんの一針分。
縫ったのは、養成院の白い型紙をしまう袋だった。
まだ何になるか分からない型紙を守る袋。
母が私に残してくれた糸で、まだ分からない未来を包む。
それがいちばん良い使い道に思えた。
翌朝、エラがその袋を見て言った。
「この縫い目、少し違います」
「分かる?」
「優しいけど、ほどけなさそうです」
私は頷いた。
「母の糸なの」
エラは真剣な顔で袋を見た。
「では、私もいつか、誰かに糸を残せますか」
「残せるわ。糸だけでなく、手順でも、記録でも、言葉でも」
エラは少し考えた。
「私は、怖いと言ってもいい、という言葉を残したいです」
「とても良い糸ね」
母の針箱は、工房の奥に置かれた。
飾るためではない。
使うために。
大切なものは、しまい込むだけではなく、ときどき手に取り、次の布へ渡していく。
母が残した糸は、まだ少し残っている。
その余白もまた、私を支えている。




