表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄の会場に、私だけ欠席していました~王子が断罪した“悪役令嬢”は、私が縫った身代わり人形です~  作者: 小竹X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
93/97

特別番外編八 母の針箱

 アーヴェル家から、古い針箱が届いた。


 差出人は父ではない。家令だった。

 短い手紙には、こう書かれていた。


『奥方様の遺品整理にて、別室の壁裏から見つかりました。旦那様のご意向により、ルブラン夫人へお届けいたします』


 母の針箱。


 私はしばらく蓋に手を置いたまま、開けられなかった。


 母は、私がこの世界で最初に針を教わった人だ。

 細い指で布を押さえ、糸を引きすぎないように、と何度も言った。


『強く引くと、布が泣くわ』


 幼い私は、布が泣くという表現が好きだった。

 大人になってから、その意味が分かった。強すぎる糸は、布を歪ませる。綺麗に見えても、着る人の体に合わなくなる。


 蓋を開けると、古い匂いがした。

 乾いた木。

 少しだけ香油。

 長く使われていなかった鉄の匂い。


 中には、針、糸巻き、小さな鋏、指貫、そして何枚かの型紙が入っていた。

 型紙の端に、母の字がある。


『コレット、七歳。袖を短く。動きやすく』


 胸が詰まった。


 王太子妃になるための豪華なドレスではない。

 子どもが転ばず、腕を上げやすく、庭で走れるように直した服の型紙だ。


 母は、私を役ではなく子どもとして見ていた。

 それを、忘れかけていた。


 針箱の底には、小さな布包みがあった。

 開くと、白い糸と一枚の紙。


『この子が、いつか私のいない場所で縫うなら、ほどけにくい糸を残しておく』


 日付は、母が亡くなる半年ほど前だった。


 私は椅子に座り、紙を膝に置いた。

 涙はすぐには出なかった。

 ただ、長い間ほどけなかった結び目が、少し緩むような感覚があった。


 ノア様は黙って隣に座った。

 何も言わないでいてくれる人がいることは、ありがたい。


 しばらくして、私は白い糸を指に巻いた。


「この糸、使うべきでしょうか」


「あなたが決めてよいと思います」


「使ったら、なくなります」


「使わなければ、残ります」


「どちらが良いのでしょう」


「糸に聞くなら、使われたいかもしれません」


 私は少し笑った。


「ノア様が詩人みたいなことを言いました」


「慣れないことをしました」


 その日の夜、私は母の白い糸を少しだけ使った。

 全部ではない。

 ほんの一針分。


 縫ったのは、養成院の白い型紙をしまう袋だった。

 まだ何になるか分からない型紙を守る袋。


 母が私に残してくれた糸で、まだ分からない未来を包む。

 それがいちばん良い使い道に思えた。


 翌朝、エラがその袋を見て言った。


「この縫い目、少し違います」


「分かる?」


「優しいけど、ほどけなさそうです」


 私は頷いた。


「母の糸なの」


 エラは真剣な顔で袋を見た。


「では、私もいつか、誰かに糸を残せますか」


「残せるわ。糸だけでなく、手順でも、記録でも、言葉でも」


 エラは少し考えた。


「私は、怖いと言ってもいい、という言葉を残したいです」


「とても良い糸ね」


 母の針箱は、工房の奥に置かれた。

 飾るためではない。

 使うために。


 大切なものは、しまい込むだけではなく、ときどき手に取り、次の布へ渡していく。


 母が残した糸は、まだ少し残っている。

 その余白もまた、私を支えている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ