特別番外編六 木苺パイの作り方
養成院の食堂で、木苺パイが出るようになった。
理由は、単純である。
開校式の挨拶でコレットが「婚約破棄の夜、厨房で木苺パイを食べていた」と話したため、生徒たちが一斉に食べたがったのだ。
食堂長は最初、眉をひそめた。
「救助具師の養成院で、なぜ婚約破棄記念菓子を作るのですか」
「記念ではありません」
コレットは慌てて否定した。
「では、何です」
「……生存確認菓子?」
「余計に分かりません」
結局、料理長出身の食堂長は、王城の厨房へ手紙を書いた。
あの夜、コレットへパイを渡した料理長はまだ現役で、返事には力強い字でこうあった。
『薄い生地。木苺は酸味を残す。甘くしすぎるな。人生が甘くない夜にも食べられる味にすること』
食堂長はその一文を読み、深く頷いた。
「良い料理長です」
木苺パイの日、生徒たちは朝から落ち着かなかった。
エラは実習前に三回も食堂の前を通り、小糸鳥は木苺の匂いに反応して厨房の入口へ向かった。食事機能はないが、匂い識別の試験には使えるらしい。
昼食後、パイが出た。
薄い生地。
甘酸っぱい木苺。
少し焦げた端。
ユリスが一口食べて言った。
「思ったより酸っぱいです」
エラは頷いた。
「でも、もう一口食べたくなります」
ミナは笑った。
「人生が甘くない夜にも食べられる味、だそうです」
「それ、教本に載りますか」
「載せません」
ニナが即答した。
しかし後に、食堂の壁には小さな札が増えた。
『甘すぎないものも、支えになる』
コレットはその札を見て、少し恥ずかしそうにした。
午後、パイを食べた生徒たちはいつもよりよく働いた。
甘すぎないから眠くならない、という食堂長の計算もあったらしい。
夕方、コレットは一人で食堂へ戻った。
皿の上には、端が少し欠けたパイが一切れ残されていた。
「奥様の分です」
食堂長が言った。
「ありがとうございます」
コレットは窓際に座り、パイを食べた。
あの夜と同じ味ではない。
場所も違う。
彼女も違う。
けれど、甘酸っぱさは似ていた。
婚約破棄の夜に食べたパイは、彼女が倒れずに立つための小さな支えだった。
今、養成院で出されるパイは、生徒たちが怖い実習のあとに戻ってくるための味になる。
食べ物も、物語も、手順も、誰かが受け取れば役目を変える。
ノアが食堂へ入ってきた。
「ここにいましたか」
「パイを食べていました」
「欠席届は出しましたか」
「食堂への出席に、届は不要です」
「本人確認は?」
「食堂長にされました」
「完璧ですね」
ノアは向かいに座った。
食堂長は何も言わず、もう一切れパイを置いた。
二人はしばらく黙って食べた。
外では、生徒たちが訓練場の片づけをしている。
リネットが小糸鳥を追いかけ、ユリスが台帳を運び、エラが刷毛の試作品を落として慌てて拾っている。
コレットはパイの最後の一口を食べた。
「おいしいですね」
「ええ」
「最初の夜より、落ち着いて味が分かります」
「それは良かった」
ノアは少し微笑んだ。
甘すぎないパイ。
ほどけても縫い直せる布。
間違えたら書き足せる台帳。
完璧ではないものばかりが、彼女の周りにある。
そして、それで十分だった。
コレットは空になった皿を見て、静かに思った。
次に誰かが人生の甘くない夜を迎えるなら、せめて温かいパイと、戻ってこられる場所がありますように。
そのために、明日も工房の灯をつける。




