特別番外編五 エラの初現場
エラの初現場は、大事故ではなかった。
市場の裏にある古い倉庫で、棚が倒れた。
閉じ込められたのは、菓子屋の見習い少年一人。怪我は軽いらしい。入口は塞がっているが、壁の隙間から声は聞こえる。
だからこそ、初現場として選ばれた。
危険はある。
だが、救助隊が管理できる範囲だ。
それでもエラの手は震えた。
「怖い?」
ニナ主任が尋ねる。
「怖いです」
「よし」
「よし、ですか」
「言えたから」
エラは深呼吸した。
手には小糸鳥三号の操作糸。隣にはリネット。少し後ろにニナ。さらに後ろにマルタ隊長と救助隊がいる。
倉庫の中から、少年の声がした。
「誰かいますか」
声は震えている。
けれど泣いてはいない。
エラは教本を思い出した。
泣いていない迷子も探す。
泣いていない怪我人も、怖くないとは限らない。
「います。救助具師見習いのエラです。今から小さい救助具を入れます。あなたの名前を教えてください」
「トマ」
「トマ、怪我はありますか」
「腕が痛い。でも、動く」
「血は出ていますか」
「分からない。暗い」
エラは小糸鳥を隙間へ入れた。
小糸鳥は細い足で瓦礫を避け、ゆっくり進む。倉庫の床には砂糖の袋が破れていて、粉が舞っている。
「粉塵注意」
リネットが言った。
エラは頷き、救助隊へ報告した。
「粉が舞っています。火気禁止。布を湿らせてください」
自分の声が思ったより落ち着いていることに、少し驚いた。
小糸鳥がトマを見つけた。
木箱の陰に座り、左腕を押さえている。血は少しだけ。棚は斜めに倒れ、無理に動かすとさらに崩れそうだった。
「トマ、今から小糸鳥が光る札を出します。それを見て、できるだけ動かないで」
「分かった」
「怖かったら、怖いと言ってください」
「……怖い」
「私も少し怖いです。でも、手順があります」
言った瞬間、エラは自分の言葉に驚いた。
それはコレットがよく言う言葉だった。
手順があります。
魔法のように安心させる言葉ではない。
けれど、足場になる言葉だ。
救助隊が支え木を入れる。
ニナが指示を出す。
エラは小糸鳥の目を通して、棚の角度と少年の位置を報告する。
「右上の箱は動かさないでください。下の木板が支えています。左の袋は軽いです。先に取れます」
マルタ隊長が短く言った。
「良い報告だ。続けろ」
エラの喉が熱くなった。
泣きそうになったが、今は泣かない。泣いてもいいが、報告の後だ。
二十分後、トマは外へ出た。
左腕に打ち身。出血は浅い。命に別状はない。
彼は外へ出た途端、泣いた。
エラも少し泣いた。
ニナ主任は、二人に布を渡した。
「泣いたら、記録がにじむ前に顔を拭いて」
現実的な助言だった。
報告書を書くとき、エラの手はまた震えた。
『倉庫棚倒壊。閉じ込め一名。粉塵あり。火気禁止。小糸鳥三号使用。救助成功。改善点、砂糖粉で視界低下。小糸鳥の足に粉が付着し、歩行が遅くなった。清掃用の小型刷毛が必要』
最後に、彼女は一行足した。
『怖いと言ったら、相手も怖いと言えた』
ニナ主任はそれを読んで、赤い印をつけた。
「重要記録です」
「改善点ではありません」
「救助点です」
その言葉で、エラは泣いた。
今度は少しだけ、安心して泣いた。
工房へ戻ると、コレットが報告書を読んだ。
「初現場、お疲れさま」
「怖かったです」
「よく戻りました」
「はい」
「次は、刷毛を作りましょう」
エラは笑った。
救助のあとに待っているのは、英雄の歌ではなかった。
小型刷毛の設計だった。
それが、とてもこの工房らしいと思った。




