第9話 人形を坑道に入れる日
最初の試験は、旧第三坑道で行われた。
今は採掘を終え、訓練用に使われている坑道だ。入口には木の支柱が並び、奥へ進むほど空気が湿って冷たくなる。壁には鉱石の名残が鈍く光り、足元には水がたまっていた。
私はマルタ隊長に渡された革靴を履いていた。
重い。けれど、滑らない。王都の靴がいかに床の上だけを歩くためのものだったか、よく分かった。
リネットは、試験用の灰色の作業服を着ている。夜会服よりずっと地味だが、膝と肘に革を当て、背中には小さな水袋を取り付けた。顔の焦げ跡はそのままなので、坑道の薄暗がりでは少し不気味に見える。
「怖がられるかもしれません」
私が言うと、マルタ隊長は鼻で笑った。
「坑道の中で顔色のいい奴なんかいないよ」
見学に来た鉱夫たちが、入口付近に集まっていた。腕を組んでいる者、半信半疑の顔の者、面白がっている者。テオ鼠の噂はすでに広まっていたらしく、小さな子どもが遠くから覗いている。
ノア様は入口の脇に立ち、記録係に指示を出している。
「目的を確認します」
私は声を上げた。
「リネット四九番を、旧第三坑道の奥にある訓練人形まで移動させます。途中で水たまり、低い梁、落石想定の狭窄部を通過します。目的は、到達、物資の受け渡し、帰還です。人間の救助隊は、入口から二十歩より奥へは入りません」
「偉そうに説明するもんだ」
若い鉱夫が呟いた。
私は彼を見た。
「説明がない道具は、壊れたときに何が悪かったか分かりません」
彼は少し気まずそうに目を逸らした。
私はリネットの背中に手を当て、命令糸を確認した。
低く進む。
梁を避ける。
人型を探す。
水袋を渡す。
戻る。
昨夜より少し複雑な命令だ。けれど、まだ足りない。坑道では予想外が多すぎる。だから私は、リネットの袖に緊急停止の赤糸を縫い込んだ。危険な動きがあれば、糸を引いて止める。
「行って」
リネットが坑道へ入った。
足音が変わる。
石の上を、木の足が慎重に進む音。人間の歩幅ではない。けれど、昨夜よりずっと安定していた。
銀糸が私の指に振動を返す。
冷気。
湿気。
木の梁。
水。
リネットが低い梁の前で止まった。
「しゃがめ」
鉱夫の誰かが、思わず言った。
リネットは、ぎこちなく膝を折る。頭が梁に当たりそうになる。私は命令を足した。
首を下げる。
右肩をすぼめる。
通る。
銀糸が少し熱を持つ。
リネットは梁の下を抜けた。
見学者の中から、小さなどよめきが起こる。
「次、水だ」
マルタ隊長が低く言った。
リネットの足が水たまりに入る。油を塗った革底が水を弾く。だが、右足首の動きが少し遅れた。湿気で関節糸が膨らんでいる。
「止めます」
「まだ行けるんじゃないか」
若い鉱夫が言う。
「試験で壊しては意味がありません」
私は赤糸を引いた。
リネットが水たまりの中で止まる。
失敗だ。
入口の空気が微妙に重くなった。やっぱり無理だ、という顔がいくつも見える。私はその視線を受け止め、リネットを戻らせた。
人形の右足首を外すと、関節糸が水を含んで膨らみ、滑車に引っかかっていた。
「原因は湿気です。銀糸に絹を巻いた部分が水を吸っています。ここを獣皮か油処理した麻に替えます」
「試験は中止かい」
マルタ隊長が言った。
「部品交換後、もう一度します」
「今から?」
「はい」
「嬢ちゃん、根性はあるね」
「根性ではなく、原因が分かっている失敗は直せます」
私は作業台代わりの木箱に道具を広げた。
鉱夫たちは最初、少し離れて見ていた。やがて年配の鉱夫が近づいてきた。
「そこ、銀だけじゃ駄目か」
「銀は伝達にはいいですが、滑りすぎます」
「じゃあ、うちの坑道で使ってる巻き麻はどうだ。湿っても締まる」
「見せてください」
彼は腰の道具袋から短い麻紐を出した。
触ると、確かに水を含んでも形が崩れにくい。私は関節糸の一部にそれを使った。
二度目の試験。
リネットは水たまりを抜けた。
低い梁を越え、狭窄部で片腕を先に通し、背中の水袋を引っかけないよう体を傾ける。奥の訓練人形まで到達し、水袋を置いた。
「戻って」
リネットは戻ってきた。
坑道の入口に出た瞬間、見学者たちは拍手ではなく、息を吐いた。
それが現場の反応なのだと思った。
派手な歓声ではない。失敗しなかったことへの、重い安堵。
若い鉱夫が、気まずそうに言った。
「……さっきは悪かった」
「何がですか」
「人形に命預けるくらいなら、ってやつ」
「正しい疑いです」
彼は困った顔をした。
「怒らねえのかよ」
「疑う人がいない道具は危ないです。代わりに、次の試験で落石役をお願いします」
「落石役?」
「安全な石を、危なく見えるように置く係です」
周囲の鉱夫たちが笑った。
若い鉱夫も、少しだけ笑った。
その日の夕方、工房の壁に試験結果を貼った。
成功。湿気対策要。狭窄部の背負い袋を改良。赤糸停止は有効。
私はその下に、小さく書き足した。
現場の疑いは、敵ではない。
ノア様がそれを見て、静かに言った。
「いい記録です」
「王都では、疑われるのは嫌でした」
「ここでも嫌でしょう」
「はい」
私は正直に答えた。
「でも、嫌だからといって省くと、人が死にます」
ノア様はしばらく黙っていた。
「コレット嬢、あなたは職人に向いています」
王太子妃に向いていると言われたことは、何度もあった。
けれど、その言葉よりも、ずっと嬉しかった。




