特別番外編二 ミナの白くない手袋
ミナは白い手袋をやめた。
聖女として王宮にいたころ、彼女の手袋はいつも白かった。汚れ一つない絹で、手首には小さな真珠が縫い込まれていた。手を差し出すだけで、人々は奇跡を期待した。
今、夜間学舎で使っている手袋は灰色だ。
洗いやすい布で、指先は少し厚く、手首には名前を書く小さな札がある。
受講者の一人が尋ねた。
「どうして白い手袋じゃないんですか」
ミナは包帯を巻きながら答えた。
「汚れが目立ちすぎるからです」
「汚れが見えた方が清潔では?」
「清潔の確認には役に立ちます。でも、怪我をした人が血を見て余計に怖がることがあります。灰色なら、汚れは分かるけれど、叫びたくなるほど目立たない」
「なるほど」
受講者は真剣にメモを取った。
授業の後、ミナは一人で手袋を洗った。
灰色の布に、薄い赤が流れる。今日の授業で使った模擬血糊だ。本物の血ではないのに、手が少し震えた。
昔、自分は涙を武器にした。
怖いと言えば、誰かが守ってくれると思っていた。傷ついた顔をすれば、誰かが相手を責めてくれると思っていた。
だから本当に血を見たとき、何をすればいいか分からなかった。
今は、少しだけ分かる。
押さえる。
呼吸を見る。
名前を聞く。
助けを呼ぶ。
できないことを、できるふりをしない。
その日の夜、レオンス殿下が学舎へ寄った。
地方任務の帰りで、袖に泥がついている。
「授業は終わったのか」
「はい。殿下は記録会議では?」
「終わった。泥の落とし方も覚えた」
「それは重要な進歩です」
ミナが言うと、殿下は苦笑した。
かつて二人は、互いに相手を理想の役に押し込めていた。
殿下は、泣く聖女を守る王子でいたかった。
ミナは、守られることで価値を得る聖女でいたかった。
その関係は甘く、危うく、そして誰かを傷つけた。
今の二人は、少し距離を置いて話す。
その距離が、かえって誠実だった。
「白い手袋ではないんだな」
殿下が言った。
「ええ。これは仕事用です」
「似合っている」
「白い手袋より?」
「ずっと」
ミナは少しだけ笑った。
「昔の私が聞いたら、怒ったかもしれません」
「昔の私なら、白い方が似合うと言っただろう」
「お互い、目が悪かったですね」
「本当に」
殿下は教室の机を見た。
そこには、受講者が書いた危険報告の練習紙が並んでいる。
『釜の取っ手が熱い』
『階段の二段目が欠けている』
『井戸端で子どもが遊んでいる』
小さな危険ばかりだ。
けれど、小さな危険を見つける目があれば、大きな事故の前に止められる。
「君は、奇跡を教えているのではないのだな」
「はい」
「では、何を教えている」
ミナは灰色の手袋を絞った。
「奇跡が来るまで生きている方法です」
殿下は静かに頷いた。
その返事は、彼女にとって過去のどんな賛辞より嬉しかった。
翌週、夜間学舎の受講者たちは、全員が灰色の手袋を作った。
針目は不揃いで、名前札も曲がっている。
けれど誰も、白くないことを恥ずかしがらなかった。
白くなくても、手は誰かを助けられる。




