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婚約破棄の会場に、私だけ欠席していました~王子が断罪した“悪役令嬢”は、私が縫った身代わり人形です~  作者: 小竹X


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番外編 受付係の少年

 救助具師養成院の開校式で受付を任された少年、ユリスは、前夜ほとんど眠れなかった。


 理由は単純だった。

 本人確認を間違えたらどうしよう、と思ったからである。


 彼は赤糸学舎の出身ではない。父は荷運び人、母は洗濯場で働いている。ユリス自身も少し前まで、市場で籠を運んだり、倉庫で紐を結んだりしていた。

 字は読めたが、早くはなかった。計算もできたが、焦ると桁を間違えた。


 そんな彼が養成院の第一期生に選ばれたのは、去年の冬、凍った川へ落ちた子どもを助けようとして、自分まで落ちかけたからだった。


 危ないことをした、と大人には叱られた。

 けれど、その場にいたニナ主任が、あとで彼に言った。


「助けようとした気持ちは大事です。でも、次はあなたも生きて戻る方法を学びましょう」


 その言葉で、ユリスは救助具師を目指すことになった。


 開校式の受付係は、第一期生の中から二人選ばれた。

 もう一人は、赤糸学舎から来たエラという少女だった。彼女は声が小さいが、目がよく動く。人の靴や袖口や手元を見て、怪我や緊張を見つけるのがうまかった。


「本人確認は、顔だけでしない」


 前日の訓練で、ニナ主任は何度も言った。


「名前、登録証、台帳、必要なら同行者確認。相手が偉い人でも、急いでいても、笑っていても、怒っていても、手順は省かない」


 マルタ隊長は横から付け加えた。


「特に偉い奴ほど確認しろ。偉い奴は、確認を飛ばしてもいいと勘違いすることがある」


 その発言を、近くにいた王家の役人が微妙な顔で聞いていた。


 ユリスは真剣にうなずいた。

 ただし、真剣にうなずきすぎて、夜には胃が痛くなった。


 そして当日。


 門の前には、予想以上に多くの人が来た。

 貴族の馬車。職人の荷車。医療院の一団。王都日報の記者。工房支部の人々。南方から来たサヤ技術顧問は、受付に着くなり「水は飲んだ?」と聞いてきた。


「飲みました」


「もう一口」


「はい」


 本人確認の前に水分確認をされた。

 しかし教本には、現地の技術顧問の助言は軽んじない、とある。ユリスは素直に飲んだ。


 次に来たのは、王太子レオンス殿下だった。


 ユリスの手は震えた。

 王太子だ。

 絵で見たことがある。本人も登録証も、間違えようがない気がする。


 けれど、教本にはこう書いてある。


『間違えようがないと思った瞬間が、最も危ない』


 ユリスは深く息を吸った。


「お名前をお願いします」


 殿下は一瞬だけ目を見開き、それから真面目に答えた。


「レオンス・ヴァレリー」


「登録証をお願いします」


「こちらだ」


 ユリスは登録証を見た。台帳と照合する。紋章を確認する。同行者欄を確認する。

 緊張で指が少し滑ったが、エラが横から台帳の端を押さえてくれた。


「本人確認、完了しました。ご出席ありがとうございます」


 殿下は、なぜか少し嬉しそうに笑った。


「良い受付だ」


 ユリスは耳まで熱くなった。


 そのあとも確認は続いた。

 ミナ医療主任。マルタ隊長。南方支部のサヤ。王都日報のエミール記者は、うっかり取材証だけを出して登録証を忘れ、エラに「それは取材許可です」と静かに指摘された。


「厳しいね、君たち」


「手順です」


 エラは小さな声で言った。


 ユリスは、その返事を格好いいと思った。


 そして、コレット・ルブラン工房長が来た。


 肖像画で見たことがある。

 新聞にも載っていた。

 工房の壁にも、彼女の書いた注意札が何枚もある。


 本人だ。


 絶対に本人だ。


 そう思った瞬間、ユリスは自分の心の中で警鐘を鳴らした。


 間違えようがないと思った瞬間が、最も危ない。


「お名前をお願いします」


 声は少し上ずった。


「コレット・ルブランです」


「登録証はありますか」


「あります」


 彼女は笑わなかった。

 面倒そうにも見えなかった。

 むしろ、少し嬉しそうに登録証を出した。


 ユリスは台帳を見る。

 名前、登録番号、紋章、写真札。

 照合。


「本人確認、完了しました。ご出席ありがとうございます」


「とても良い確認です」


 その言葉で、ユリスは一日ぶんの力を使い果たしそうになった。


 式典が始まると、受付係の仕事は少し落ち着いた。

 ユリスとエラは門の横で、壇上の話を聞いた。


 コレット工房長は、厨房で木苺パイを食べていた話から始めた。

 会場が笑った。


 ユリスも笑った。

 けれど話が進むにつれて、笑いより別のものが胸に残った。


『救助具師は、奇跡を売る仕事ではありません。届かなかった手を、少しでも届くようにする仕事です』


 その言葉を聞いたとき、ユリスは去年の冬の川を思い出した。


 氷の割れる音。

 水の冷たさ。

 泣いていた子どもの顔。

 自分の足が滑った瞬間の恐怖。


 あのとき、彼は助けようとした。

 でも、助け方を知らなかった。


 これから学ぶのは、勇気を派手に見せる方法ではない。

 怖い場所で、戻ってくる方法だ。


 式典後、ユリスは小糸鳥の実習を見に行った。

 小さな救助具がよたよた歩き、布札を探し、途中で椅子の脚にぶつかって止まる。


「失敗ですか」


 ユリスが聞くと、ニナ主任は言った。


「失敗です。だから記録します」


「失敗してもいいんですか」


「失敗したまま隠すのは駄目です。失敗して、記録して、直す。それなら次の人が助かります」


 ユリスは、その言葉を胸の中に入れた。


 夕方、受付台を片づけると、台帳の最後に白い余白があった。

 エラが言った。


「今日の記録、書く?」


「何を書くの?」


「間違えなかったこと。緊張したこと。王太子殿下の確認で指が滑ったこと。コレット先生が褒めてくれたこと」


「それも記録?」


「たぶん」


 ユリスは筆を取った。


 字は少し震えた。

 けれど、読める字で書いた。


『開校式受付。本人確認完了。大きな混乱なし。緊張で手が震えたが、エラが台帳を押さえた。手順は一人で守るものではなく、隣の人と守るものだと分かった』


 書き終えると、エラがうなずいた。


「いい記録」


「ありがとう」


 門の向こうで、糸燕が夕方の風に揺れていた。


 ユリスはまだ救助具師ではない。

 針目も揃わない。報告書も遅い。怖いものも多い。


 けれど今日、彼は一つだけ覚えた。


 誰かを助ける仕事は、英雄のように飛び出すことだけでは始まらない。

 門の前で名前を聞くこと。

 登録証を確かめること。

 震える手で台帳を押さえること。


 そういう小さな一針からも、始まるのだ。



小さな追伸 台帳の余白


 開校式の翌朝、コレットは受付台帳の余白を読んだ。


 ユリスの字は、まだ硬い。緊張の跡が残っている。けれど、彼が何を見て、何を怖がり、誰に助けられたかがきちんと書かれていた。


「良い記録ですね」


 ニナが隣で言った。


「ええ。成功を自慢する記録ではなく、次に緊張する人を助ける記録です」


 コレットは台帳を閉じず、余白の下に小さな紙を貼った。


『手順は、一人で守らなくてよい。隣の手を借りても、守れたなら、それは守ったことになる』


 昔の自分に読ませたい言葉だった。

 大広間へ向かう糸を一人で握っていた夜、もし誰かが隣で台帳の端を押さえてくれたら、どれほど心強かっただろう。


 けれど、過去は変わらない。

 だから未来の受付台に、そう書いておく。


 リネットが紙を見て言った。


「追記を提案します」


「何を?」


「本人確認後、相手が安心した場合も記録するとよいです」


「どうして?」


「確認されることは、疑われることではなく、守られることでもあると分かるからです」


 コレットは少し黙り、それから笑った。


「採用します」


 台帳の余白は、また一行ぶん少なくなった。


 しかし記録室には、まだ白い紙がたくさんある。

 これから学ぶ者たちが、失敗し、怖がり、助け合い、戻ってきて書くための紙だ。


 物語は完結しても、台帳は閉じない。

 誰かが明日の一針を記録するために、余白は残しておく。



 そしてその余白に、最初に書き込むのは、きっと完璧な人ではない。

 手を震わせながら、それでも名前を確かめる誰かだ。

 その震えごと、次の糸になる。



 数日後、受付台帳の余白には、二つ目の記録が増えた。


『来客が怒って急いでいた。確認を省きそうになったが、隣の係が水を差し出して時間を作った。怒っている人ほど、本人確認が必要だと分かった』


 その下には、別の筆跡でこうある。


『水を飲ませるのは、砂漠だけでなく受付でも有効』


 サヤの字だった。


 さらにその下へ、ミナが書き足した。


『怒っている人は、怪我人と同じく呼吸が浅い場合がある。先に息を整えると、話が届きやすい』


 マルタ隊長は、もっと太い字で書いた。


『怒鳴る奴に合わせて急ぐな。急がせる声と、急ぐべき危険は別だ』


 台帳は、いつの間にか小さな教本になっていった。


 コレットはそれを見て、最初の欠席届を思い出した。

 一枚の書類が、人の行動を変えることがある。

 ただし書類だけでは足りない。読む人、守る人、疑問に思う人、書き足す人が必要だ。


 だから養成院では、白い余白をわざと残すことにした。

 教本も、型紙も、台帳も、完全なものとして閉じない。

 新しい土地へ行けば、新しい砂が入る。

 新しい水辺へ行けば、新しい泥がつく。

 新しい人と出会えば、新しい怖さを知る。


 それらを恥じずに書き足せる場所があるなら、技術は古びずに済む。


 コレットは棚の一番下に、未使用の台帳を並べた。

 背表紙には、まだ題名がない。


「次は何の記録になるでしょうね」


 ノアが尋ねる。


「分かりません」


「不安ですか」


「少し。でも、白い型紙と同じです。分からないものの場所を空けておくのは、悪いことではありません」


 ノアは台帳の背を指で撫でた。


「では、余白にも予算をつけなければ」


「素晴らしい領主発言です」


「褒められましたか」


「かなり」


 リネットが横から言った。


「余白は食事機能を必要としますか」


「それは紙代です」


「理解しました。余白には紙代が必要です」


 コレットは笑い、未使用の台帳を一冊、受付台の下へ置いた。


 いつか誰かが、それを開くだろう。

 そして、震える手で最初の一行を書く。


 それでいい。

 最初の一行は、いつだって少し震えている。

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