最終話 本人確認をお願いします
救助具師養成院の開校式の日、私は門の前で本人確認を求められた。
「お名前をお願いします」
受付の少年は、真面目な顔で台帳を持っている。
年は十三ほど。緊張で耳が赤い。
「コレット・ルブランです」
「登録証はありますか」
「あります」
私は胸元の登録証を見せた。
少年は台帳と照合し、印章を確認し、さらに隣の少女へ言った。
「写真札と一致。登録番号、確認」
少女がうなずく。
「本人確認、完了しました。ご出席ありがとうございます」
私は思わず笑った。
「とても良い確認です」
少年の耳がさらに赤くなった。
「ありがとうございます。教本に、必ず確認するようにと」
「その教本を書いた者として、安心しました」
少年は口を開けた。
隣の少女が小声で言う。
「だから、さっきからコレット様だって」
「本人確認前に決めつけるなって先生が!」
「正しいです」
私は笑いをこらえながら門を通った。
救助具師養成院は、かつて使われていなかった王立倉庫を改装した建物だった。
広い実習場、医療室、記録室、材料庫、各地の支部と繋がる通信室。庭には火災訓練用の塔と、瓦礫訓練用の石場、そして子ども向けの安全教室がある。
門の上には、銀糸と赤糸で縫われた旗が揺れていた。
『救助具師養成院』
その下に、小さな文字。
『手順を守り、失敗を記録し、手を伸ばす』
開校式には、多くの人が来ていた。
ノア様は院の理事として、珍しく少し緊張した顔で書類を確認している。
ニナは実習主任。
ミナは医療教育主任。
サヤは南方技術顧問として、砂除け布の見本を広げている。
マルタ隊長は訓練場の安全確認をしながら、若い教官たちを叱っている。
レオンス殿下は王家代表として来ていたが、受付で本人確認を受けて少し嬉しそうだった。
「確認されると、妙に安心するな」
「良いことです」
「昔の私に聞かせたい」
「聞かせても、聞かなかったかもしれません」
「その通りだ」
殿下は苦笑した。
式典前、私は記録室へ入った。
そこには、これまでの救助記録が保管されている。
助けられた人の名。
助けられなかった人の名。
失敗の原因。
改良された型紙。
各地の職人の報告。
そして、最初の欠席届の写し。
額縁は、工房からここへ移されたわけではない。
工房にも本物の写しがある。
ここにあるのは、教育用の複製だ。
額縁の下には、説明札がついている。
『本人確認を怠った事件を契機に、救助具制度と代理人形規則が整備された。手順は人を縛るためだけにあるのではない。人を守り、誤りを減らし、選び直す余地を残すためにある』
私はその札を読んだ。
少し堅い。
でも、養成院らしい。
リネットが隣に来た。
新しい体になってからも、歩き方には少しだけ最初の癖が残っている。人間ではない足音。けれど、私にはとても聞き慣れた音だ。
「コレット」
「なに?」
「本日は、欠席しませんか」
「しません」
「確認しました」
私は笑った。
式典が始まった。
壇上に立つと、広場いっぱいに人が見えた。
貴族だけではない。職人、救助隊員、医療係、学舎の子ども、過去に助けられた人、これから学ぶ人。
最前列にはエラがいた。
彼女は第一期生の腕章をつけている。顔は緊張しているが、逃げていない。
私は深く息を吸った。
「私は昔、王城の厨房で木苺パイを食べながら、自分が断罪される声を聞いていました」
会場に笑いが起きる。
「そのときは、こんな場所に立つとは思っていませんでした。王太子妃になれなかった令嬢が、救助具師養成院の開校式で話すなど、当時の父が聞いたら倒れたでしょう」
少し強い笑い。
ノア様が、控えめに肩を震わせている。
「けれど、人生は一つの役を降りたあとも続きます。悪役令嬢と呼ばれても、婚約破棄されても、家から期待された場所を失っても、針を持つ手が残っているなら、何かを縫えます」
私は会場を見渡した。
「ここで学ぶ人たちに、三つだけ伝えます」
エラが背筋を伸ばす。
「一つ。救助具を信じすぎないこと。道具は万能ではありません。壊れます。迷います。砂に詰まります。犬に追われます」
小糸鳥の試験を知っている子どもたちが笑った。
「二つ。自分を信じすぎないこと。怖いなら怖いと言い、分からないなら聞き、疲れたら交代してください。根性で人は助かりません。手順と協力で助かります」
マルタ隊長が大きくうなずいている。
「三つ。助けを待つ人を、物語の脇役にしないこと。その人には名前があります。家族がいます。泣けないことも、怒ることも、黙ることもあります。最初に握る手は、丁寧に握ってください」
私は少し間を置いた。
「救助具師は、奇跡を売る仕事ではありません。届かなかった手を、少しでも届くようにする仕事です。その一針は地味です。地味で、重くて、失敗も多い。けれど、地味な糸は案外遠くまで届きます」
風が旗を揺らした。
「どうか、あなたの糸を育ててください」
拍手が起きた。
大きく、長い拍手だった。
式典の後、エラが私のところへ来た。
「先生」
その呼び方には、まだ慣れない。
「はい」
「私、怖いです」
「何が?」
「救助具師になることです。失敗したら、人が死ぬかもしれません」
「そうね」
「でも、やりたいです」
「それなら、学びましょう」
私は彼女に練習用の針を渡した。
「最初の課題は?」
エラが尋ねる。
「破れた布を直すこと」
「新しい布ではないんですね」
「新しい布だけを扱う仕事ではないから」
彼女は笑った。
少し震えながら、それでも針を受け取った。
その横を、小糸鳥がよたよた歩いていく。
リネットが追いかけ、登録札を確認している。
ニナが生徒に説明し、ミナが包帯を配り、サヤが砂布を畳み、マルタ隊長が誰かを叱り、ノア様が私を見て微笑んでいた。
私はその景色を見た。
婚約破棄の夜、私は厨房にいた。
本人ではない人形が大広間に立っていた。
欠席届一枚で、私は罠を抜けた。
けれど本当に大事だったのは、欠席したことではなかった。
そのあと、自分で出席する場所を選んだことだ。
私はもう、誰かに用意された役のために立っていない。
針を持つ手で、布を押さえ、糸を通し、次の人へ型紙を渡すために立っている。
式典の受付で、また声がした。
「お名前をお願いします。登録証を確認します」
新しい生徒が、少し緊張して答えている。
本人確認は、今日も正しく行われている。
私はノア様の手を取り、養成院の庭を歩いた。
リネットの足音が後ろからついてくる。
空は晴れていた。
風は強すぎず、糸燕はよく飛びそうだった。
明日も、きっと誰かが助けを呼ぶ。
明日も、どこかで布は破れる。
明日も、私たちは完璧ではない手で、それを縫い直す。
それでいい。
ほどけた場所があるなら、一針目から始めればいいのだから。




