後日譚 第三十六話 アーヴェル家の縫い直し
父が倒れたという知らせが来た。
アーヴェル伯爵家の使いは、工房の玄関で深く頭を下げた。
かつて私を家の道具のように扱った家の紋章が、彼の胸に縫い付けられている。
「旦那様が、奥様にお会いしたいと」
私はすぐには答えなかった。
父との関係は、断ち切った糸ではない。
絡まり、引きつれ、ところどころ血が滲んだまま、箱にしまってあった糸だ。
ノア様は私に判断を委ねた。
「会う必要はありません」
「会わなくてもいいですか」
「もちろん」
「会った方が、縫い直せるでしょうか」
「縫い直せる場合もあります。切った方がよい場合もあります」
正しい答えだった。
だから私は、自分で決めるしかなかった。
アーヴェル邸は、以前より静かだった。
庭の薔薇は手入れされているが、華やかさより寂しさが目立つ。
父は寝室にいた。
痩せていた。
昔は大きく見えた肩が、寝台の上では小さく見える。
「コレット」
「はい」
「来てくれたのか」
「会うだけです」
父は苦笑した。
「厳しいな」
「優しくする理由を、あまり持っていませんので」
「そうだな」
沈黙が落ちた。
以前の父なら、家名のため、王家のため、私のためだと言って、自分の行いを飾っただろう。
今は、その飾りを持ち上げる力もないのかもしれない。
「私は、お前を見ていなかった」
父が言った。
「王太子妃になる娘を見ていた。家を上げる道具を見ていた。針を持つお前を、見なかった」
私は窓際に立ったまま、黙って聞いた。
「火事の件も、私は利用された。いや、そう言うと逃げになるな。利用されるような欲があった。お前が失敗すれば、別の条件で王家と取引できると考えた」
胸が冷たくなる。
知っていたはずのことでも、本人の口から聞くと重い。
「許してほしいとは言わない」
「それは助かります」
父は目を閉じた。
「お前に、家を継がせたいと言ったら、笑うか」
「断ります」
「早いな」
「私はもう、別の家と工房を持っています」
「そうか」
父は少し息を吐いた。
「では、アーヴェル家の資産の一部を、赤糸学舎に寄付したい。お前の名ではなく、母上の名で」
母の名前を聞いて、私は初めて父をまっすぐ見た。
「お母様の名で?」
「お前に針を教えたのは、あの人だろう」
「……はい」
「私は、それすら軽んじた」
父の声は弱かった。
でも、逃げてはいなかった。
許すかどうかは、すぐに決められない。
父の謝罪で過去が消えるわけではない。
けれど、母の名で学舎に糸を渡すことは、悪くないと思った。
「寄付は受けます。ただし、条件があります」
「何だ」
「女子だけでなく、家から追い出された男子、職を失った職人、身分証のない子どもも受け入れます。アーヴェル家の名で、対象を狭めないでください」
父は少し驚き、それから頷いた。
「分かった」
「それから、寄付は一度ではなく、管理委員会を通してください。家の気まぐれで途切れないように」
「お前は本当に、書類に強くなった」
「元々です」
父は小さく笑った。
帰り際、寝室の扉で父が言った。
「コレット」
「はい」
「お前の針は、私にはもったいないものだった」
私は振り返らなかった。
「そうですね」
それだけ答えて、扉を閉めた。
邸を出ると、ノア様が馬車のそばで待っていた。
「どうでしたか」
「縫い直しには時間がかかりそうです」
「切りますか」
「今は、結び目をほどくところから始めます」
ノア様はうなずいた。
完全な和解ではない。
美しい親子の再会でもない。
でも、母の名前で学舎に糸が届く。
それなら今日来た意味はあった。




