後日譚 第三十一話 喧嘩は食卓で起こる
ノア様と喧嘩をした。
理由は、夕食のスープだった。
正確には、スープを飲みながら彼が「明日の北坑道視察には私一人で行く」と言ったことだった。
「一人で?」
「危険は低い。定期確認です」
「定期確認でも、古い坑道でしょう」
「ええ」
「救助隊は?」
「マルタ隊長には別件があります。若い隊員を二人連れて行きます」
「それは一人とは言いません」
「あなたに心配をかけないための表現でした」
その一言で、私の匙が止まった。
心配をかけないため。
便利な言葉だ。
相手を思いやっているようで、実際には情報を渡さない理由にもなる。
「ノア様」
「はい」
「私は、危険を知らされない方が心配します」
彼はすぐには答えなかった。
その沈黙で、私の胸が少し刺々しくなった。
「また、私を置いていくつもりですか」
「そういう意味ではありません」
「では、どういう意味ですか」
「あなたは最近、休んでいない」
「ノア様もです」
「私は慣れています」
「私も慣れています」
「だから問題なのです」
二人とも、相手を心配していた。
しかし心配の形が、相手に黙ることになっていた。
食卓の空気が固くなる。
リネットは部屋の隅で、洗濯物を畳む動作の練習をしていた。こういうとき、人形は空気を読まない。
「会話停止。原因は未確認です」
「リネット」
「はい」
「今は黙っていて」
「黙ります」
リネットは本当に黙った。
洗濯物の端だけが、少しずつずれていく。
私はスープを見た。
温かいはずなのに、味が分からない。
「ノア様は、私が弱いと思っていますか」
「思っていません」
「では、なぜ隠すのですか」
「あなたが強いからです」
その答えは、予想外だった。
ノア様は視線を落とした。
「あなたは、危険だと知れば行こうとする。助けられる可能性があるなら、自分の疲れを後回しにする。私はそれを尊敬しています。ですが、夫としては怖い」
「夫として」
「ええ」
彼は静かに言った。
「領主としては、あなたの判断を信じます。救助隊の協力者としても、工房長としても。けれど夫としては、あなたが倒れる未来を想像してしまう」
胸の刺々しさが、少し形を変えた。
怒りの下にあったのは、たぶん同じ恐怖だ。
「私も、ノア様が戻らない未来を想像します」
「はい」
「それを防ぐために情報がほしいのです」
「私も、あなたを休ませるために情報を減らそうとした」
「お互い、方法が悪いですね」
「ええ」
リネットが部屋の隅で言った。
「会話再開。原因は過保護です」
私は思わず笑ってしまった。
ノア様も額に手を当てて笑っている。
喧嘩は終わっていない。
でも、笑えるところまで戻ってきた。
その夜、私たちは新しい書類を作った。
『危険届』
危険な現場へ行く前に、誰が、どこへ、何のために行き、戻る予定はいつか、代替案は何かを書く。
夫婦のためだけではない。工房と領主館の共同規則にした。
「これは少し恥ずかしいですね」
ノア様が言った。
「欠席届よりはましです」
「欠席届が始まりでしたから」
「では、危険届は続けるための書類です」
私は署名した。
ノア様も署名した。
リネットが最後に札を貼った。
『黙って行かないこと』
字はまっすぐだった。
翌朝、ノア様は北坑道へ行った。
私は同行しなかった。
ただし、危険届の写しを机に置き、帰還予定時刻の横に小さな糸印を結んだ。
待つことも、仕事の一つだ。
難しい仕事だが、少しずつ覚えていくしかない。




