後日譚 第二十九話 聖女の夜間学舎
ミナは夜に授業を始めた。
昼間に働く下女、洗濯女、馬丁見習い、孤児院を出たばかりの少年少女。昼の赤糸学舎へ通えない人たちのための、夜間学舎だ。
最初、彼女は看板に『聖女の夜間学舎』と書かれるのを嫌がった。
「聖女という言葉を使うと、奇跡を期待されます」
「では何と書きますか」
「応急手当と読み書きの夜間講座」
「正確ですが、少し眠くなりますね」
結局、看板は二段になった。
『聖女の夜間学舎』
『応急手当・読み書き・危険報告書の書き方』
長い。
でも、内容はよく分かる。
授業初日、私は見学に行った。
ミナは白い聖女服ではなく、袖をまくりやすい灰色の作業服を着ていた。髪も低くまとめ、机の上には包帯、木札、インク壺、そして小さな人形が並んでいる。
「今日は傷口の押さえ方と、救助隊への伝言の書き方を練習します」
受講者の一人が手を上げた。
「字が下手でもいいですか」
「読めればいいです。読めないときは、絵でも構いません。大事なのは、怪我人の数、場所、危険の種類です」
「聖女様が治してくれるのではないんですか」
別の少年が言った。
悪気はなさそうだった。
教室の空気が少し固くなる。
ミナは微笑んだ。
「私は、すべての怪我を治せません」
はっきりした声だった。
「でも、あなたが血を止められれば、その人は私が来るまで生きていられるかもしれません。あなたが場所を書ければ、救助具が早く届くかもしれません。奇跡を待つ前に、人ができることがあります」
少年は黙ってうなずいた。
私は教室の後ろで、その言葉を聞いていた。
かつて彼女は、自分が奇跡であることに縋っていた。
今は、奇跡を待たない方法を教えている。
授業の後、ミナは疲れた顔で椅子に座った。
「手が震えました」
「見えませんでした」
「隠しました」
「上手でした」
彼女は少し笑った。
「私、昔は誰かに見てもらうために泣いていました」
「今は?」
「泣くと包帯が濡れるので、授業中は我慢します」
「実用的ですね」
「実用的な女になりたいです」
その言葉が、彼女にはよく似合っていた。
夜間学舎は、少しずつ人を増やした。
授業後、受講者たちは工房の掲示板に小さな報告書を貼るようになった。
『井戸の蓋が割れています』
『南門の階段が濡れると滑ります』
『洗濯場の釜の取っ手が熱すぎます』
些細に見える危険が、事故を減らす。
救助具が出動する前に、人を守る。
ミナの教室は、派手な奇跡を起こさなかった。
けれど翌月、南門の階段で転ぶ人が半分に減った。
洗濯場では、火傷が三件減った。
井戸には新しい蓋がついた。
それもまた、奇跡と呼んでいいのかもしれない。
ただし、誰か一人の涙ではなく、何人もの手で作る奇跡だ。




