後日譚 第二十八話 ニナ主任、初出張
ニナが主任として初めて出張に出る日、私は彼女の鞄に針山を三つ入れた。
「多すぎます」
「一つは予備、一つは予備の予備、一つは安心用です」
「安心用とは」
「持っていると私が安心します」
「コレット様の安心用なら、断れませんね」
ニナは少し笑って、鞄を閉じた。
行き先は東部の湿地帯だった。
春になると水路が膨れ、家畜小屋や倉庫が沈む。水に強い小型救助具の試験依頼が来たのだ。
私は同行しない。
工房長として、すべての現場へ行くことはできなくなっていた。南方支部、北の鉱山、王都の制度会議、赤糸学舎。私一人が動かなければ進まない仕組みでは、救助具は広がらない。
それは分かっている。
分かっているが、ニナを見送る手は落ち着かなかった。
「本当に大丈夫ですか」
私が言うと、ニナは胸を張った。
「大丈夫です。失敗したら記録します。困ったら現地の人に聞きます。怖くなったら戻ります。無理そうなら撤退します」
「完璧です」
「コレット様が毎日言っていることです」
「私は毎日そんなに口うるさいですか」
「はい」
即答された。
ノア様が横で肩を震わせている。
出発直前、リネットがニナに小さな布札を渡した。
「これは?」
「湿地用注意項目です。食事機能はありません、を削除し、水没時の乾燥手順を追加しました」
「ありがとう、リネット。現地の子どもに聞かれたら説明するね」
「食事機能についても?」
「聞かれたらね」
馬車が動き出す。
ニナは窓から手を振った。
私は見えなくなるまで見送った。
その夜、工房が妙に広く感じた。
ニナは元々、小さな見習い侍女だった。宮殿の厨房で青い顔をして、私の断罪を心配していた子だ。
その子が今、工房の主任として現場へ出ている。
嬉しい。
誇らしい。
そして、少し怖い。
机に向かっても、手が進まなかった。
「便箋を出しましょうか」
ノア様が言った。
「まだ出発したばかりです」
「では、書いておいて、三日後に出す」
「過保護でしょうか」
「はい」
「即答ですね」
「ですが、書くことで落ち着くなら、過保護にも用途があります」
私は便箋を出した。
書き始めると、注意事項ばかりになった。
水の深さを測ること。泥に足を取られないこと。現地の舟師を軽んじないこと。夜間作業では必ず二人一組になること。
書いている途中で、私は笑った。
これは手紙ではなく、仕様書だ。
最後に一行だけ足した。
『あなたの判断を信じています』
その一行を書くのが、いちばん難しかった。
七日後、ニナから報告書が届いた。
湿地用救助具は一度転覆。
原因は浮力布の張りすぎ。
現地の舟師の助言で、底を丸くし、横風を逃がす構造に変更。
牛一頭、子ども三人、濡れた麦袋十二個を救助。
怪我人なし。
報告書の最後には、ニナの字でこう書かれていた。
『コレット様。信じてくださったので、戻れました』
私はその報告書を、何度も読んだ。
それから赤糸学舎の掲示板に写しを貼った。
弟子が独り立ちするとは、離れていくことではない。
届く糸が増えることだ。




