第7話 馬車道の小さな救助
ルブラン領へ向かう馬車は、王都を出て三日目に山道へ入った。
王都の石畳はすでに遠く、窓の外には針葉樹と灰色の岩肌が続いている。空気は冷たく、息を吐くと白い。道はよく整えられているが、谷側にはところどころ崩れた跡があり、北西が鉱山と雪の国であることを早くも思い知らされた。
リネットは、向かいの座席に座っていた。
青い夜会服はもう着ていない。焦げた部分を外し、仮の作業服を縫い付けた。顔の焦げ跡は完全には消していない。直す時間がなかったこともあるが、昨夜の仕事をなかったことにしたくなかった。
「揺れます」
リネットが言った。
「そうね。足首の調整が狂うから、立たないで」
「了解しました」
人形が素直に座っている姿は、少し奇妙だ。御者台から聞こえる馬の足音と、車輪が石を踏む音。私は膝の上で小さな試作品を縫っていた。
手のひらほどの布鼠。
リネットのような人型は、材料も時間もかかる。狭い坑道や崩れた瓦礫の隙間へ入れるなら、もっと小さいものが必要だった。布鼠は、細い糸を引きながら進み、熱、湿気、空気の流れを私の指先へ返す。まだ目はない。鼻も耳も飾りに近い。けれど、暗い場所に入るには十分だ。
「それは名前があるのですか」
ノア様が向かいから尋ねた。
「まだありません」
「名をつけると、作業員が雑に扱わなくなります」
「では、糸鼠一号」
「それは名前というより番号です」
「登録番号四九番も、最初は番号でした」
「本人はどう思っていますか」
ノア様はリネットを見た。
リネットは少し首を傾けた。
「登録番号四九番、識別に支障なし」
「本人がよいなら、よいのでしょう」
会話として成立しているようで、少しおかしかった。
そのとき、馬車が急に止まった。
御者が低く叫び、馬がいななく。私は作業台代わりの膝から布鼠を落としそうになった。
「何事です」
ノア様はすぐに扉を開けた。
外に出ると、道の先で荷馬車が横倒しになっていた。積み荷の木箱が散らばり、谷側の車輪が半分崩れた土に沈んでいる。商人らしい男が青ざめ、若い女が泣きながら叫んでいた。
「息子が、下に……!」
横倒しの荷台の隙間から、小さな手が見えた。
ノア様の動きは早かった。御者と護衛に指示を出し、馬を離し、荷台を支えるためのくさびを探させる。私は状況を見る。子どもの腕は動いている。声は聞こえない。荷台を無理に持ち上げると、崩れた土ごと谷へ滑るかもしれない。
「コレット嬢」
「隙間を見ます」
私は布鼠一号に銀糸を結び、地面へ置いた。
「狭いところへ。人の熱を探して。戻って」
命令は簡単だ。
布鼠は、ぎこちなく前足を動かして荷台の下へ入っていった。周囲の人々が驚いて声を上げる。説明している時間はない。
糸が私の指を震わせる。
冷たい土。
割れた木片。
布。
熱。
「男の子は荷台の奥、胸は圧迫されていません。でも足が木枠に挟まっています」
「持ち上げると危ないか」
「谷側が落ちます。先に山側から木箱を抜いて、荷重を減らしてください。右奥に瓶の箱があります。割れると滑ります」
ノア様はすぐに指示を変えた。
護衛たちは木箱を一つずつ外し、御者が縄で荷台を木に結ぶ。商人の妻は泣きながら祈っていたが、ノア様が短く「声をかけ続けてください」と言うと、震える声で息子の名を呼び始めた。
「テオ、聞こえる? 母さんよ。手を握れなくてごめんね。すぐ出すからね」
荷台の下で、小さな手が動いた。
私は布鼠に次の命令を入れた。
「手に触れて。動かないよう伝えて」
布鼠が、子どもの指先へ近づく。
糸を通して、弱い震えが返ってきた。子どもが布鼠を握ったのだ。
「握っています」
私が言うと、母親が泣き崩れそうになった。
ノア様は荷台の支えを確認し、合図を出した。三人が山側を少し持ち上げ、一人が木枠を外す。私は糸で布鼠を子どもの手元に留めた。
「今です」
護衛が男の子を引き出した。
泥だらけで、片足に擦り傷がある。けれど、大きな怪我はなかった。母親が抱きしめ、商人は何度も頭を下げた。
布鼠は、子どもの手に握られたまま戻ってきた。
テオという少年は、涙と泥でぐしゃぐしゃの顔をしていたが、布鼠を離そうとしなかった。
「これ、ぼくを見つけたの?」
「そうよ」
「ねずみなのに?」
「ねずみだから、狭いところに入れたの」
少年は真剣な顔でうなずいた。
「えらいね」
布鼠に向かって言った。
私は少しだけ胸が熱くなった。
リネットのような人形でなくてもいい。小さくても、未完成でも、誰かにとって最初に届く手になれる。
商人は礼金を差し出そうとしたが、ノア様は受け取らなかった。
「道の管理に不備があったかもしれません。領へ入ったら、役所に事故報告を出してください」
「しかし、助けていただいて」
「礼なら、その子に温かいものを食べさせてください」
商人はまた頭を下げた。
馬車へ戻ると、ノア様が布鼠を見た。
「名前は決まりましたね」
「一号では駄目ですか」
「テオが怒ります」
私は布鼠の泥を拭いた。
「では、テオ鼠」
「そのままですね」
「名前は分かりやすい方がいいです」
リネットが口を開いた。
「テオ鼠、救助任務完了」
その平らな声に、ノア様が少しだけ笑った。
山道の空は薄く曇っていた。王都から遠ざかるにつれ、不安は消えない。けれど、道の途中で助けた小さな命が、私の仕事の輪郭をはっきりさせてくれた。
断罪の場から逃げるためではなく、人のいる場所へ糸を伸ばすために、私は北西へ向かっている。




