第6話 ルブラン辺境伯家の仮工房
ルブラン辺境伯家の王都別邸は、豪華というより頑丈だった。
門は厚く、塀は高い。玄関の床には濡れた靴でも滑らない石が使われ、廊下の壁には飾り剣ではなく非常灯と救助用の縄が掛けられていた。王都の貴族邸というより、よく整えられた詰所に近い。
私はそれを見て、少し安心した。
見栄より実用を大事にする家は、針箱を粗末に扱わない可能性が高い。
「こちらを使ってください」
案内されたのは、庭に面した小さな離れだった。もとは馬具の修理場だったらしく、壁には工具を掛ける穴が並び、広い作業台が二つある。窓は大きく、午前の光がよく入った。
私は作業台に母の裁縫箱を置いた。
黒檀の箱を開けると、懐かしい木と糸の匂いがした。緊張がほどけて、思わず息を吐く。
「十分すぎます」
「足りないものは言ってください」
「では、耐熱布、細い銅線、薄い木板、獣皮の端切れ、あと油を吸わない綿が必要です」
ノア様は近くの従者に目を向けた。
「二時間で揃えられるか」
「一時間半で」
「無理はするな」
「旦那様の二時間は、だいたい一時間半の意味です」
従者はそう言って、淡々と出ていった。
主従の会話に無駄がない。王宮で見慣れた、美しい遠回しの言葉とは違う。少し戸惑うが、作業場としてはありがたい。
私はリネットを台の上に寝かせた。
焦げた青いドレスをほどくと、焼けた布の下から木の胴体が現れる。右肩の銀糸は熱で縮れ、肘の関節は煤を噛んで動きが悪い。顔の左側も焦げているが、内部の記録糸は無事だった。
「直せますか」
ノア様が尋ねた。
「直します」
「質問を変えます。どのくらい危険ですか」
「すぐに動かすのは危険です。関節糸が切れかけています。記録糸を傷つけずに外布を替える必要があります」
「あなた自身は休む必要があります」
「あとで」
「あとで休む人は、たいてい休みません」
どこかで聞いたような言い方だった。
私は針を持つ手を止めた。
「ノア様は、救助隊の方に同じことを言われているのですか」
「言っています。そして、よく無視されます」
「今、私も無視しかけました」
「分かっているなら、座ってください」
椅子はすでに引かれていた。
私は少し迷ったあと、座った。体が椅子に触れた瞬間、疲れが一気に押し寄せた。昨夜からほとんど眠っていない。婚約破棄、火事、実家、証拠、仮契約。心だけで立っていたのだと、そこでようやく分かった。
ノア様は作業台の端に、温かい茶とパンを置いた。
「食べながらで構いません。リネットの構造を教えてください」
「職務上の確認ですか」
「半分は。もう半分は、あなたが黙って作業すると倒れそうだからです」
「合理的ですね」
「北西では、倒れた技師を運ぶ人手も資源です」
私はパンを一口食べた。
柔らかい白パンではなく、穀物の粒が残った噛みごたえのあるパンだった。胃に落ちると、少しだけ体が戻ってくる。
「リネットは、本来は代理挨拶用です。人間の代わりに礼をする、座る、定型文を話す。その程度でした。昨夜の救助は、私が急いで命令を足しただけです」
「命令は、糸に入れるのですか」
「布に縫い留めます。糸は道筋です。命令を伝える糸、記録する糸、動きを支える糸。それぞれ役割が違います」
「嘘をつけないと言っていましたね」
「嘘をつけないというより、縫っていないことはできません。自分を本人と名乗る命令を入れていなかったので、本人だとは言いませんでした」
ノア様は、焦げたリネットの手を見た。
「だから、救助では危険なのですね。状況判断が狭い」
「はい。人間なら『この子は腕を引くと痛めるから抱えよう』と判断できます。人形には、それを事前に縫う必要があります」
「逆に言えば、縫えればできる」
「条件付きで」
私は母の裁ち鋏を手に取った。
この鋏は、布を切るときに音がほとんどしない。母は、よい鋏は布を怖がらせないと言っていた。
「昨夜のリネットは、ニナを見つけ、抱え、戻りました。けれど、火元を避ける判断は荒い。もし床が抜けていたら、二人とも落ちていました」
「鉱山なら、床が抜ける方が普通です」
「普通であってほしくありません」
「私もそう思いますが、岩は意見を聞きません」
少しだけ笑ってしまった。
作業台の上で、リネットがかすかに動いた。
壊れかけた記録糸が、私の指に触れたのだ。
「リネット?」
私は顔を寄せた。
人形の唇が、わずかに開く。
「記録、未整理。西回廊、第三燭台、声、二名」
ノア様の表情が変わった。
「声を記録しているのですか」
「音そのものではありません。糸が拾った振動を、言葉に近い形で残すことがあります。ただ、正確ではないので証拠としては弱いです」
「それでも聞きたい」
私は慎重に銀糸をほどいた。
焦げた部分に触れないよう、母の指貫で糸を押さえる。記録糸は、人の記憶に似ている。無理に引くと切れる。優しくほどけば、残っているものだけが出てくる。
リネットの平らな声が、途切れ途切れに再生された。
「……四九番が……喋った……予定外……記録糸を……燃やせ……」
部屋の空気が冷えた。
もう一つの声が続く。
「……本人が出るなら……伯爵家も……処理が楽に……」
私は指先を止めた。
父の声ではない。
しかし、聞き覚えがあった。
王太子殿下の側近の一人、礼典副長クレマン。三日前、衣装室の隣で断罪の打ち合わせをしていた男だ。
ノア様は、すぐに紙へ書き留めた。
「これで、火事は偶然ではなくなりました」
「まだ証拠としては弱いです」
「弱い証拠は、強い証拠を探すために使います」
私はリネットの焦げた手を握った。
人形は痛みを感じない。けれど、その小さな手は昨夜、ニナを抱えて戻ってきた。
「この子を直します」
「はい」
「それから、救助用に作り替えます。礼をするためではなく、人を助けるために」
ノア様はうなずいた。
「あなたの仕事として、正式に依頼します」
その言葉を聞いて、胸の中の結び目が少しだけ形を変えた。
私はもう、王太子妃になるための娘ではない。
人形を縫う職人として、ここにいる。
それは不安で、少し怖くて、でも初めて、自分の足で床に立っている感じがした。




