第5話 父の家には戻れない
アーヴェル伯爵邸へ戻ったのは、翌朝だった。
戻るべきではないと、ノア様ははっきり言った。証拠を持ったまま実家へ入るのは危険だ、と。私も頭では分かっていた。けれど、置いていけないものがあった。
母の裁縫箱。
私の道具のほとんどは、王宮の衣装室か自室の工房にある。中でも、母が遺した黒檀の裁縫箱だけは、誰かに処分される前に取り戻したかった。
ノア様は同意しなかった。ただ、反対もしなかった。
「一人では行かせません。私は門の外にいます。中へは、あなたの意志で入ってください」
「伯爵家の問題に巻き込んでしまいます」
「昨夜、巻き込まれると決めました」
その言い方には、余計な熱がなかった。だから信じられた。
邸の玄関に立つと、幼いころから見慣れた扉が、妙によそよそしく見えた。磨かれた真鍮の取っ手。冬薔薇の浮き彫り。母が好きだった薄青のステンドグラス。どれも変わっていないのに、私だけがもうここに属していない。
執事は私を見て、短く息を止めた。
「お嬢様……」
「父に会います」
「旦那様は、応接室に」
止められなかった。
応接室の扉を開けると、父は暖炉の前に立っていた。アーヴェル伯爵、ジェラール。私と同じ黒髪だが、目元は硬く、口元にはいつも不満が刻まれている。
継母のエリーヌもいた。彼女は朝から真珠の耳飾りをつけ、手には扇を持っている。隣には異母妹のシャルロットが座り、目を赤くしていた。泣いたのか、泣いたふりをしたのかは分からない。
「よくも帰ってこられたな」
父の第一声は、それだった。
「昨夜はお騒がせしました」
「騒ぎで済むと思っているのか。殿下を侮辱し、王宮を混乱させ、あげく火事まで起こした。アーヴェル家の名を、どこまで貶めるつもりだ」
「火事は私が起こしたものではありません」
「そんなことは問題ではない」
父は机の上の新聞を叩いた。
朝刊だった。早刷りの一面に、大きな見出しが踊っている。
『王太子殿下、本人不在の令嬢を断罪』
『身代わり人形、火中より侍女を救う』
『欠席令嬢、婚約破棄を承諾』
欠席令嬢。
もう呼び名がついている。
私は少しだけ頭が痛くなった。こういう新聞の早さだけは、どの世界でも変わらないらしい。
「お前は殿下に謝罪しろ」
「何についてですか」
「口答えをするな!」
父の声が室内に響いた。
昔の私なら、そこで黙っていた。父の怒鳴り声には、子どものころから身体が反応してしまう。けれど今は、背後に閉じた扉があり、門の外にはノア様がいる。さらに、リネットの破れた袖の内側には焦げた紙片が縫い込まれている。
黙っている理由がなかった。
「お父様」
私はリネットを机の上へそっと置いた。
焦げた頬、焼けた裾、裂けた袖。昨夜、ニナを救った証拠そのものだ。
「この子を燃やすよう命じた紙片に、アーヴェル家の封蝋が残っていました」
父の顔が、わずかに変わった。
ほんの一瞬だった。怒りでも驚きでもなく、見られたくないものを見られた人の顔。
継母が扇を止めた。
「何のことか分からんな」
「私にも分かりません。ですから確認に来ました。お父様が命じたのですか」
「馬鹿なことを言うな」
「では、印章を誰かに貸しましたか」
「伯爵家の印章は、軽々しく貸すものではない」
「白紙の封書に、あらかじめ封蝋を押したことは」
父は黙った。
その沈黙で、答えは十分だった。
継母が慌てて口を開く。
「コレット、あなたは昨夜の失敗を家のせいにするつもりなの? 殿下に捨てられて傷ついたのは分かるわ。でも、お父様を疑うなんて」
「傷ついたことと、証拠を確認することは別です」
「冷たい子ね」
「温かい子なら、燃やされても黙っていますか」
継母は扇の骨を鳴らした。
シャルロットが、小さく言った。
「お姉様、もうやめて。私たちまで笑われてしまうわ」
その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。
シャルロットは悪い子ではない。甘やかされ、家の評判を何より恐れるように育っただけだ。けれど、その恐れはいつも、私に我慢を求める形で出てくる。
「笑われたのは、私だけではありません。本人確認をせず断罪した殿下も、欠席届を確認しなかった礼典課も、そして私を火事に巻き込もうとした誰かもです」
「お前は、家を敵に回す気か」
父が低く言った。
私は母の裁縫箱を取りに来たのだ。言い争いに来たのではない。そう思っていた。けれど、父の目を見た瞬間、分かった。
この家は、もう私を守らない。
もともと守っていなかったのかもしれない。ただ、私が王太子の婚約者だったから、守っているふりをしていただけだ。
「敵に回すつもりはありません」
私は言った。
「ただ、これ以上、味方だと思うのはやめます」
父の頬が引きつる。
私は深く礼をした。娘としてではなく、家を出る客として。
「母の裁縫箱と、私の道具を持っていきます。私物ですので」
「許さん」
「母の遺品です」
「この家のものだ」
やはり、そう来た。
私は袖口から、一枚の小さな紙を出した。母の遺言書の写し。何度も読み返したから、折り目が白くなっている。
「母の裁縫箱と内部の道具類は、コレット・アーヴェル個人に譲る。公証人の署名があります」
「お前は、そんなものまで用意して……」
「用意したのは母です」
父は言葉を失った。
その沈黙の中で、私は自室へ向かった。誰も追ってこなかった。執事だけが、廊下の角で待っていて、小さく頭を下げた。
「お嬢様。裁縫箱は、昨夜のうちに奥の倉庫へ移されております」
「処分するために?」
「旦那様のご指示では、王宮へ提出すると」
私は目を閉じた。
提出ではなく、差し出すつもりだったのだろう。私の技術も、人形も、母の道具も、家名を守るための交換材料にするために。
「案内して」
倉庫は冷えていた。
積まれた古い家具の奥に、黒檀の裁縫箱があった。鍵は壊されていない。私はそれだけで、少しだけ救われた気がした。
箱を抱えると、思ったより重かった。
母が生きていたころ、私はこの箱を宝物のように見ていた。中には絹糸、針、銀の指貫、小さな裁ち鋏、そして名前のない型紙がいくつも入っている。母は、針仕事が人を救う日が来ると笑っていた。
その日が、本当に来た。
屋敷の外へ出ると、ノア様の馬車が待っていた。彼は何も聞かず、裁縫箱を受け取ってくれた。
「重いですね」
「母の分も入っていますから」
「では、丁寧に運びます」
その返事が、妙にありがたかった。
馬車が動き出す。
窓の外で、アーヴェル伯爵邸が少しずつ遠ざかっていった。泣きたくなるかと思ったが、涙は出なかった。代わりに、胸の奥に固い結び目ができていた。
いつかほどくかもしれない。
でも今は、ほどかなくていい。
私は母の裁縫箱に手を置き、焦げたリネットを膝に乗せた。
帰る家を失った日。
私は、仕事道具だけは失わなかった。




