第4話 焦げた封蝋は嘘をつかない
燃え残った紙片は、指先に乗せると驚くほど軽かった。
紙は半分以上が炭になっている。けれど、焦げ跡の端に残った赤い封蝋だけは、嫌になるほどはっきりしていた。アーヴェル伯爵家の紋章。剣を巻く蔦。父が好んで使う、古い型の印章だ。
大広間の奥では、まだ混乱が続いていた。火事は西回廊の一部で収まりつつあるらしく、衛兵と使用人が水桶を運んでいる。貴族たちは避難したいのに見物もしたいという顔で、扉のそばに群がっていた。
私は焦げたリネットを抱えたまま、紙片を見つめていた。
『人形ごと燃やせ。本人が出てきたなら、なおよい』
なおよい、という言葉が胸の内側で引っかかった。
私を消すことが主目的ではない。人形を燃やすことが、先に書かれている。リネットが何かを見て、何かを聞き、それを記録していると、誰かが知っていたのだ。
「コレット嬢」
ノア様が、低い声で呼んだ。
彼は医師にニナを預けたあと、私の前に立っていた。濡らした外套の袖は煤で黒くなり、きちんと結ばれていた髪も少し乱れている。けれど、目は落ち着いていた。
「それを、今すぐ誰にも渡してはいけません」
「父の印です」
「だからです」
言い方は静かだったが、意味は重い。
私は紙片をハンカチに包み、さらにリネットの破れた袖の内側へ縫い留めた。針を出す余裕はなかったので、折れかけの銀糸を指で結ぶ。こんな雑な縫い方を母が見たら怒るだろう。それでも、落とすよりはましだった。
「殿下!」
背後で、レオンス殿下の声がした。
振り返ると、殿下は数人の側近に囲まれてこちらへ来るところだった。先ほどまでの怒りに、別の焦りが混じっている。公開断罪に失敗し、本人不在を笑われ、さらに火事まで起こった。今夜の建国祭は、王太子の威信を飾る夜ではなく、彼の手順の甘さを見せる夜になってしまった。
「コレット、今の火事は何だ。君の人形が関係しているのではないか」
「リネットは見習い侍女を救助しました」
「救助に見せかけた混乱工作かもしれない」
ニナを抱えて走っていった医師を見ていながら、それを言うのか。
腹は立った。けれど、ここで感情を先に出してはいけない。私は煤で汚れたリネットの頬を袖で拭き、殿下へ礼をした。
「殿下。火元の調査は、衛兵隊と宮殿管理官の仕事です。私の人形が疑われるのであれば、正式な手順で検分をお申し付けください」
「正式な手順だと?」
「はい。登録番号四九番の代理挨拶用人形です。検分には礼典課、魔導具管理官、公証人の立ち会いが必要です」
殿下の眉が引きつった。
おそらく、私がまだ紙を持っているとは思っていない。欠席届も登録控えも、さきほど礼典長に見せた。勢いで押し切れる相手ではないと、ようやく理解し始めている顔だった。
「君は、どこまで私を愚弄するつもりだ」
「愚弄ではありません。手順です」
「同じことだ!」
殿下が一歩近づこうとしたとき、ノア様が私との間に入った。
「殿下。火災の現場には煙を吸った使用人がいます。今は責任の押しつけより、医師と避難経路の確保が先です」
「ルブラン卿、君はその女の味方をするのか」
「私は、今夜一人を救った技術を見ました。疑うべきことがあるなら調べます。ですが、救助した人間を火事の原因にするには、証拠が足りません」
殿下の側近たちは、視線を落とした。
そこへ、灰色の髭をした宮殿管理官が駆け込んできた。手には煤だらけの魔導灯の金具がある。
「殿下、西回廊の魔導灯ですが、留め具が外されています。老朽化ではありません。工具でこじ開けた跡がございます」
広間の空気が、また変わった。
火事は事故ではない。
その言葉はまだ誰も口にしていないが、全員が同じことを考えた。
ミナ様は、王太子の後ろで小さく震えていた。先ほどまで私に罪を着せようとしていた人なのに、その震えは演技には見えなかった。誰かに操られている。そう断じるには早い。けれど、彼女の青ざめ方は、計算が失敗した人のものではなく、予定にない火が大きくなりすぎた人のものに見えた。
料理長が、廊下の向こうから私を見た。
顔は煤で汚れているが、無事だ。彼女は短く顎を引き、私にだけ分かるように口を動かした。
逃げな。
私はリネットを抱き直した。
「ノア様」
「はい」
「先ほどの仕事の依頼、今ここで仮契約にできますか」
ノア様の目が少しだけ見開かれる。
「できます。内容は、あなたの安全確保と、ルブラン領における救助用人形の研究協力。期間は三か月。報酬と工房は保証します」
「身分は」
「客人では弱い。臨時技師として迎えます」
「契約書は」
「馬車に常備しています」
「素晴らしいです」
私は、その夜初めて心から感心した。
婚約破棄の会場に欠席届を出す女もたいがいだが、建国祭の馬車に雇用契約書を積んでいる辺境伯も相当だった。
ノア様は淡々と続けた。
「北西では、口約束は雪崩で埋まりますから」
「いい言葉ですね」
「祖父の口癖です。実際、二度埋まりました」
笑ってよいのか迷う話だった。
けれど、その短いやり取りのおかげで、私は息を整えられた。
レオンス殿下が何かを言う前に、ノア様は宮殿管理官と衛兵へ指示を出した。ニナの治療状況、火元の保存、リネットの正式検分、私の身柄の扱い。どれも強引ではないが、迷いがなかった。
私はリネットの焦げた手首を包み、ハンカチの内側の紙片を指で確かめた。
父の印。
燃やすべき人形。
本人が出てきたなら、なおよい。
今夜、私は婚約者を失っただけではない。
帰る家も、安全とは言えなくなった。
けれど、不思議と膝は震えなかった。
私には、焦げた人形と、仕事の依頼と、証拠を覚えている糸がある。
舞台の幕が落ちたなら、次は裏方が動く時間だった。




