第三話 糸は燃えても、人は助けられます
火事、という言葉で、人はすぐには動けない。
大広間にいた貴族たちも同じだった。悲鳴は上がる。扇は落ちる。椅子が鳴る。けれど、誰も出口へ向かうべきか、その場に留まるべきか分からず、ただ顔を見合わせている。
煙は西回廊から来ていた。
厨房へ続く通路だ。
私の胸が冷たくなる。
ニナ。
「コレット嬢」
ノア様の声がした。
彼はもう動いていた。近くの給仕から水差しを受け取り、テーブルクロスを引き抜いて水をかけている。
「西回廊に人が?」
「見習い侍女がいます。厨房にも人が」
「避難路は」
「裏庭へ出る扉があります。でも、回廊の途中に衣装箱が積まれているはずです。今日の式典用の予備衣装が」
「なら、詰まるな」
ノア様は濡らした布を私へ渡した。
「口に当ててください」
「ありがとうございます」
私は布を受け取りながら、リネットを見た。
さっき破れた袖が、少し垂れている。人形の顔は無表情だ。けれど私には、あの子がこちらを待っているように見えた。
「リネット、歩ける?」
「右腕の外布に損傷。歩行には支障ありません」
近くにいた令嬢が、また小さく悲鳴を上げた。
今は気にしていられない。
私はリネットの背中にある細い縫い目を開き、糸巻きから銀糸を引き出した。指先に魔力を込める。針はない。けれど、私の魔法は布に命令を縫い留めるものだ。簡単な動きなら、指で糸を押し込むだけでも足りる。
探す。
小さい手。
煙を避ける。
引く。
戻る。
四つの命令を縫う。
複雑な判断はできない。会話も長くは続かない。けれど、人間が入れない煙の中へ、人形なら行ける。
「コレット嬢、その人形は熱に耐えますか」
ノア様が尋ねた。
「布は燃えます。木も焦げます」
「では、戻れない可能性がある」
「はい」
リネットの肩に手を置いた。
私は人形を人間だとは思っていない。
けれど、私の手で縫ったものだ。夜を徹して、指先に針を刺しながら、母に似せた横顔を少しだけ混ぜて作った。
壊れて平気なわけではない。
それでも。
「人が戻れないよりはいいです」
ノア様が私を見た。
その目に、奇妙な同情はなかった。ただ、決断を見ている人の目だった。
「分かりました。私は回廊の手前まで行きます。あなたはここで糸を持ってください」
「いいえ、私も行きます」
「煙を吸います」
「糸の感触が遠すぎると、細かい命令を足せません」
「では、私の後ろに」
短い会話だった。
それだけで十分だった。
私とノア様は大広間の脇扉へ向かった。後ろで殿下が何か言ったが、聞く余裕はなかった。
西回廊は、すでに煙で白く濁っていた。
焦げた布の匂い。
焼けた木箱の匂い。
魔導灯の油が割れたのか、床に青い火が舐めるように広がっている。
「魔導灯が落ちたのか」
ノア様が低く言った。
「いいえ」
私は壁を見た。
魔導灯は金具から外れている。けれど、真下に落ちたのではない。誰かが横から叩き落としたように、壁に黒い筋が斜めに走っていた。
偶然ではない。
そう思った瞬間、煙の奥から咳き込む声が聞こえた。
「ニナ!」
私は叫んだ。
返事はない。
代わりに、かすかな泣き声がした。
リネットを前に出す。
「行って」
人形は、煙の中へ歩き出した。
足取りは少しぎこちない。ノア様が言った通り、人間の足音ではない。けれど、低い姿勢で、火の広がっている場所を避けながら進んでいく。
銀糸が私の指から伸びる。
熱い。
糸越しに熱が伝わるわけではないのに、そう感じた。
探す。
小さい手。
煙を避ける。
引く。
私は心の中で命令を繰り返した。
糸が震えた。
何かに触れた感触。
柔らかい。布。袖。人の腕。
「見つけた」
私は糸を握った。
リネットの動きが止まる。命令が足りない。ニナは倒れているのかもしれない。引くだけでは、腕を痛める。
私は自分の袖口を裂いた。
その場で細い布紐にし、銀糸へ結びつける。即席の命令を足す。
抱える。
頭を守る。
戻る。
指先が震えた。
前世でも、本番中に衣装が壊れたことは何度もあった。舞台袖の暗がりで、針に糸を通し、三十秒でドレスの肩紐を直した。
失敗すれば、舞台が止まる。
今は違う。
失敗すれば、人が死ぬ。
「落ち着いて」
ノア様の声が、すぐそばでした。
「あなたの手は動いています」
その言葉で、自分が息を止めていたことに気づいた。
息を吸う。
濡れた布越しでも、煙の匂いがした。
私は最後の糸を押し込んだ。
「戻って、リネット」
煙の奥から、小さな影が現れた。
リネットだ。
腕に、ニナを抱えている。
ニナはぐったりしていたが、胸が上下している。生きている。リネットの髪は焦げ、青いドレスの裾は焼けて黒くなっていた。木の頬にも煤がついている。
それでも、人形はまっすぐこちらへ戻ってきた。
ノア様が駆け出し、ニナを受け取る。
「息はある。医師を!」
廊下の向こうにいた衛兵が走った。
私は膝から力が抜けそうになり、壁に手をついた。リネットは私の前で止まり、いつもの平らな声で言った。
「任務、完了しました」
「うん」
私は焦げた頬に触れた。
「ありがとう」
大広間から出てきた貴族たちが、その場面を見ていた。
さっきまで、リネットを気味悪がっていた人たちだ。誰も笑っていない。誰も悲鳴を上げない。
ただ、焦げた人形と、助け出された侍女を見ている。
ノア様はニナを医師に預けると、こちらへ戻ってきた。
「コレット嬢」
「はい」
「あなたの人形は、人が入れない場所へ入れるのですね」
「条件が合えば」
「煙、瓦礫、狭い坑道、魔獣の巣穴。そういう場所へも?」
「改良は必要です。熱に弱いですし、遠すぎると命令が乱れます。足音もまだ不自然です」
「欠点を先に言う職人は信用できます」
ノア様は、少しだけ笑った。
派手な笑顔ではない。
けれど、目元が柔らかくなる笑い方だった。
「私の領では、鉱山の崩落事故が多い。救助隊が入れず、声だけ聞こえて、助けられないことがあります」
私は黙った。
ノア様の声は静かだったが、その静けさの奥に、積もった悔しさがあった。
「あなたの人形なら、最初の水袋を届けられるかもしれない。細い穴から中へ入り、道を探せるかもしれない。生きている人の手を、最初に握れるかもしれない」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
私の魔法は、ずっと地味だと言われてきた。
王太子妃には不要。
家名を上げる役には立たない。
女の手慰み。
細かいだけ。
それでも、誰かの手を最初に握れるなら。
それは、たぶん、私が欲しかった仕事だ。
「ルブラン辺境伯様」
「ノアで結構です」
「では、ノア様。私は婚約破棄されたばかりです」
「はい」
「家に戻れば、父に叱られます。たぶん、王太子殿下との件を台無しにしたと責められます」
「でしょうね」
「そこは否定してくださらないのですね」
「嘘をつくのは苦手です」
思わず笑ってしまった。
こんな夜に笑うとは思わなかった。
ノア様も、ほんの少し笑った。
「安心してください。今のは求婚ではありません。仕事の依頼です」
「そこまで先回りされると、少し恥ずかしいです」
「私も言ってから、少し早かったと思いました」
妙に正直な人だった。
私は焦げたリネットを抱え直した。
リネットの背中から、銀糸が一本垂れている。さっきの救助で切れかけた記録糸だ。私はそれを指に巻き、焦げた部分を確かめた。
糸に、何かが引っかかっていた。
小さな紙片。
煙の中でリネットが拾ってきたのだろう。半分焦げているが、文字は読めた。
『人形ごと燃やせ。本人が出てきたなら、なおよい』
私は息を止めた。
紙片の端には、赤い封蝋が残っていた。
アーヴェル伯爵家の紋章。
私の実家の印だった。
婚約破棄は、終わりではなかったらしい。
私は焦げた紙片を握り、ノア様を見た。
「仕事の依頼、詳しく聞かせていただけますか」
ノア様の表情が引き締まる。
「もちろん」
大広間の方では、まだ殿下が何かを叫んでいる。
けれど、もう遠い声だった。
私は今夜、婚約者を失った。
代わりに、焼け焦げた人形と、木苺パイの紙包みと、自分の針で縫える未来を手に入れた。
悪くない。
少なくとも、欠席してよかったと心から思う。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
続きが気になる、コレットとノアの仕事を見てみたいと思っていただけましたら、ブックマーク・評価で応援していただけると嬉しいです。




