第二話 礼儀作法人形は嘘をつかない
大広間から、妙な沈黙が流れてきた。
人が大勢いる場所の沈黙には、いくつか種類がある。祈りの沈黙、緊張の沈黙、失望の沈黙。
今の沈黙は、たぶん「何を言われたのか分からない」沈黙だった。
「欠席、だと?」
レオンス殿下の声が一段低くなる。
「何を馬鹿なことを。君はここにいる」
「いいえ」
人形は答えた。
私より少しだけ声が平らだ。感情を縫い込むのは難しい。けれど、礼儀作法としてなら十分だった。
「アーヴェル伯爵令嬢コレット本人は、三日前に建国祭夜会の欠席届を提出しております。私は代理挨拶用の礼儀人形です。登録番号は四九番です」
ざわめきが爆発した。
厨房まで、はっきり聞こえるほどだった。
ニナが口を押さえた。
「喋りました」
「縫ったからね」
「いえ、そうではなく、ものすごく大変なことを喋りました」
「それも縫ったからね」
私は糸巻きを手に取って立ち上がった。
そろそろ行った方がいい。大広間の空気が荒れると、人形に危険が及ぶ。
厨房の出入り口へ向かおうとしたとき、料理長が無言で紙包みを差し出してきた。
「残りのパイだ。持っていきな」
「ありがとうございます」
「お嬢さん、背筋を伸ばしな。悪いことをしてない人間が、こそこそ歩くんじゃないよ」
ありがたい言葉だった。
私は紙包みを受け取り、厨房を出た。
宮殿の裏廊下は、大広間の華やかさとは違って、石の床が冷たい。壁際には銀の燭台が並び、侍従や給仕たちが慌ただしく行き来している。
誰もが大広間を気にしていた。
私は招待客用の華やかなドレスではなく、衣装室で作業するための薄灰色のワンピースを着ていた。髪も簡単に結っているだけだ。これで大広間に入れば、さぞ場違いだろう。
けれど、今夜の私は欠席者だ。
場違いなくらいでちょうどいい。
大広間の脇扉に近づいたところで、中から殿下の怒鳴り声がした。
「ふざけるな! このような茶番で罪から逃れられると思うな!」
「罪については、本人にお尋ねください」
人形の声は落ち着いている。
「私は代理挨拶用の礼儀人形です。登録番号は四九番です」
「黙れ!」
何かが倒れる音がした。
私は足を速めた。
脇扉の前にいた衛兵が、私を見て目を見開く。
「アーヴェル伯爵令嬢……?」
「本人です。欠席者ですが、代理人形が乱暴されそうなので入ります」
「は、はい」
衛兵は完全に混乱していたが、扉は開けてくれた。
大広間に入った瞬間、二百人近い視線がこちらへ向いた。
中央には、私そっくりの令嬢が立っている。
淡い青のドレス。母の形見の真珠を模した首飾り。髪は夜会用に結い上げられ、顔も私に似せてある。少し離れて見れば、人形だとは分からないだろう。
ただし、近くで見れば違う。
瞬きが少ない。
息をしていない。
そして、右手の薬指の付け根に、私がつけた小さな縫い目がある。
その人形の左腕を、レオンス殿下がつかんでいた。
殿下の隣では、聖女ミナ様が青ざめた顔で震えている。震えてはいるが、私が本当に現れたのを見た瞬間、目の奥に別の色が走った。
驚きではない。
計算が狂った人の目だ。
「コレット……?」
殿下が私を見た。
それから、自分がつかんでいる人形を見た。
もう一度、私を見る。
非常に気まずい間があった。
「こんばんは、殿下」
私は礼をした。
「本日は欠席の予定でしたが、代理人形に乱暴されているようでしたので、失礼ながら参りました」
「これは、どういうことだ」
「三日前に、欠席届を提出しました。こちらが控えです」
私は袖口から折り畳んだ書類を取り出した。
礼典課の受領印。
代理挨拶用魔導具の登録番号。
人形の持ち込み許可。
控えは三枚作ってある。前世の衣装係だったころ、口約束で何度泣かされたか分からない。紙は大事だ。控えはもっと大事だ。
近くにいた礼典長が、震える手で書類を受け取った。
「た、確かに……礼典課の受領印です。登録番号も正式なものです」
ざわめきが、また大きくなった。
誰かが「では、殿下は本人が欠席している場で断罪を」と囁く。
別の誰かが「本人確認もせずに?」と続けた。
殿下の顔が赤くなる。
「だが、彼女はここにいた! 誰が見てもコレットだった!」
「殿下」
広間の左側から、低い声がした。
黒い礼服の男性が一歩前へ出る。
年は二十代半ばほど。深い茶色の髪を後ろでゆるく結び、背は高いが、威圧感より落ち着きがある。胸元には、北西辺境を示す銀の鷹の徽章。
ノア・ルブラン辺境伯。
噂だけは聞いていた。国境沿いの鉱山地帯を治め、崩落事故や魔獣被害の救助に力を入れている人だ。王都の夜会にはあまり出ないらしい。
そのノア様が、人形の足元を見ていた。
「本人かどうかを確かめるのは、断罪する側の責任ではありませんか」
「ルブラン卿、これは王家の問題だ」
「ならば、なおさら手順が必要です。少なくとも、私は先ほどから違和感がありました」
「違和感?」
「彼女の足音です」
ノア様は人形を指さした。
「人間の足音ではなかった。踵に重心が乗らず、床を撫でるように動く。私は鉱山で自動荷車を使いますが、それに近い」
会場中の視線が、人形の足元へ集まった。
人形は静かに立っている。
少しだけ、申し訳なくなった。
足首の動きはまだ改良中なのだ。
「それから、殿下」
ノア様は穏やかに続けた。
「その方は、一度も自分をコレット嬢本人だとは名乗っていません」
そう。
リネットには、嘘を縫い込んでいない。
私が作った身代わり人形の名は、リネット。代理挨拶用であり、本人ではない。椅子に座り、礼をし、必要なら定型文を述べるだけの人形だ。
周囲が勝手に、私だと思っただけ。
「コレット嬢」
ノア様がこちらを向いた。
「この人形は、あなたが作られたのですか」
「はい」
「よくできている」
その言葉は、まっすぐだった。
嘲笑でも、気味悪がる声でもない。
胸の奥が、少しだけ揺れた。
「ありがとうございます」
「礼を言っている場合か!」
殿下が怒鳴った。
そして、人形の腕を強く引いた。
布の裂ける音がした。
青い袖が破れ、白い手袋がずれ、磨かれた木の手首が露わになる。関節には銀糸が通り、小さな歯車のような糸留めが光っていた。
大広間から悲鳴が上がった。
ミナ様が一歩下がる。
リネットは、腕をつかまれたまま、ゆっくり殿下を見上げた。
「痛覚は入っておりませんので、ご安心ください」
誰かが吹き出した。
別の誰かも。
やがて広間のあちこちから、堪えきれない笑いが漏れた。
レオンス殿下の顔は、赤を通り越して青くなっている。
私は破れた袖を見て、ため息をついた。
「殿下、その子は今朝までかけて縫ったものです。乱暴に扱わないでください」
「子、と言ったか。人形だろう」
「はい。ですが、私の仕事です」
私はリネットのそばへ歩み寄った。
殿下の手が、ようやく離れる。
私はリネットの破れた袖を整え、手首の糸が切れていないか確かめた。よかった。少し布が裂けただけだ。
「さて」
私は顔を上げた。
「婚約破棄については、殿下のお気持ちを確認いたしました。私本人として、正式に受け取ります」
「ま、待て。今のは」
「なかったことにはできません。二百人の前で宣言なさいましたから」
殿下が言葉に詰まる。
ミナ様が小さく震えながら、殿下の袖をつかんだ。
「レオンス様、でも、コレット様は私にひどいことを……」
「では、確認しましょう」
私はミナ様を見た。
「私があなたのドレスを破ったのは、いつ、どこで、どちらの手で、どの刃物を使ってですか」
「そ、それは」
「毒入り香油の瓶は、誰が私の手から受け取りましたか。瓶の封は誰が開けましたか。証人は、私の顔を正面から見ましたか」
ミナ様の唇が震えた。
私は声を荒らげなかった。
声を荒らげると、こちらが悪く見える。母が昔、教えてくれたことだ。
「欠席届を出した私が、今夜この広間にいるはずだと、誰が皆様に伝えましたか」
広間のざわめきが変わった。
好奇心から、疑いへ。
ミナ様は答えられない。
殿下も答えられない。
その沈黙だけで、今夜の断罪はほとんど崩れていた。
そのとき、廊下の方から悲鳴が上がった。
「火事だ!」
大広間の空気が、一瞬で変わる。
私は振り返った。
脇扉の向こう、厨房へ続く西回廊から、黒い煙が流れ込んできていた。




