後日譚 第二十五話 南の工房
南方での試験は、一か月続いた。
リネットは三度転び、二度砂に埋まり、一度だけ駱駝に背中を舐められた。
最後の失敗は、設計とは無関係だった。
「塩の匂いがしたのでしょう」
サヤが平然と言った。
「救助具が駱駝に舐められる想定を、仕様書に入れるべきでしょうか」
「入れた方がいい。砂漠ではよくある」
よくあるらしい。
私は仕様書の端に『大型獣による接触。舐め、噛み、鼻押し』と書き足した。
北では笑われそうな項目だ。
しかしここでは必要な項目だ。
カラヴィナ侯爵は、試験の終わりに正式な契約を申し出た。
「ルブラン工房の支部を、我が領に置いていただきたい」
涼しい石造りの応接室で、侯爵はそう言った。
年配の男性で、笑うと目元に深い皺が寄る。砂嵐の日には自ら救助隊の後方指揮に立ち、助かった子どもの家族へ頭を下げていた。
条件は悪くなかった。
工房用の建物、職人の住居、材料費、領内での試験許可。さらに、現地職人の雇用を優先すること。
私は書類を見て、隣のサヤを見た。
「サヤ様に、南方支部長をお願いしたいです」
応接室が静かになった。
サヤ自身も、私を見た。
「私?」
「はい」
「私はあなたの弟子ではない」
「だからです」
私は書類を閉じた。
「弟子なら、私のやり方を真似しようとします。けれど南方支部には、砂漠のやり方を最初から知っている人が必要です」
「北の技術を預けるのに?」
「南の技術も、私たちが預かります。片方だけが教えるなら、それは支部ではなく出張所です」
サヤは口を結んだ。
怒っているようにも、考えているようにも見えた。
侯爵は面白そうに私たちを見ている。
「ハルーン工房の娘よ、受けるかね」
「……受けます。ただし条件があります」
「言いなさい」
「北の工房から来る者は、最初の十日、私たちの水汲みと砂除け布干しを手伝うこと。砂を知らない手で、救助具に触らせない」
侯爵が笑った。
「厳しい」
「命の道具です」
サヤは私を見た。
「いい?」
「もちろん」
私は即答した。
こうして、南方支部が決まった。
その夜、仮工房で小さな祝いをした。
乾燥果実の菓子、香辛料入りの茶、羊の乳で作った白いチーズ。ニナは香辛料入りの茶を飲んで、目を丸くしていた。
「舌が暖かいです」
「辛いと言っていいのよ」
「いえ、これは暖かいです。辛いというより、舌に暖炉があります」
ミナが笑いながら水を渡した。
リネットは作業台の上に座っていた。
新しい砂足板は、まだ少し大きい。けれど、砂の上ではその大きさが必要だ。
サヤがリネットの足板に小さな模様を彫った。
「これは?」
私が尋ねると、彼女は言った。
「道を失わない模様。迷信だけど」
「救助具に迷信を入れてもいいのですか」
「入れてはいけない理由がある?」
ない。
私は笑って、北の糸燕の模様をリネットの背に縫い足した。
砂漠の道しるべと、北の帰還の鳥。
どちらも、帰ってくるための印だ。
翌朝、南方支部の看板がかかった。
『カラヴィナ救助具工房 南支部』
その下に、サヤが小さく書き足した。
『水を飲んでから作業すること』
マルタ隊長はそれを見て、深くうなずいた。
「いい支部だ」
救助具の未来は、一つの工房から広がるのではない。
それぞれの土地で、必要な形に変わっていく。
私はそのことを、砂に削られたリネットの足から学んだ。




