後日譚 第二十二話 砂は布を嫌う
カラヴィナ侯爵領の空は、ルブランの空より広かった。
山がない。
森も少ない。
地平線というものが、あんなにまっすぐな線だとは知らなかった。
到着した日の午後、私は工房用の仮小屋でリネットを分解し、十分後に敗北を認めた。
「無理です」
ノア様が水差しを持ってきた。
「早いですね」
「砂が細かすぎます。関節を布で覆っても、縫い目から入ります。銀糸の上を削ります。足首の動きが三歩で鈍くなりました」
「改良できそうですか」
「できます。ただし、ルブラン式を少し直す程度では駄目です。別物にしないと」
私はリネットの膝関節から、細い砂を筆で払った。
砂はただの粒ではない。動く。潜る。隙間を探す。相手を選ばず、少しずつ機構を鈍らせる。
そこへ、仮小屋の入口から女の声がした。
「だから言ったでしょう。北の人形は、砂の上では三日もたないって」
振り返ると、色の濃い布を頭に巻いた女性が立っていた。
年は私より少し上だろう。腕は日に焼け、指には染料の跡がある。腰には針ではなく、小さな骨製の櫛と、革を切る湾曲した刃を下げていた。
「サヤ・ハルーンです。侯爵家の織物工房で、砂除け布を作っています」
彼女は挨拶より先に、リネットの足を見た。
「よくできている。でも、足が綺麗すぎる」
「綺麗すぎる?」
「砂漠で綺麗な足は沈みます。広く、軽く、逃げ道を作らないと」
サヤは持っていた革袋から、薄い木板のようなものを出した。
駱駝の骨と革を組み合わせた、幅広の履物だ。
「砂歩きの板。人間用はあります。人形用に小さくすれば、沈みにくい」
私は受け取って、裏を見た。
ただ広いだけではない。細い溝が斜めに入っている。砂を逃がすためだ。
「すごい」
素直に言うと、サヤは少し目を細めた。
「北の貴族は、だいたい最初に『原始的だ』と言います」
「私は貴族というより、縫い手です」
「では縫い手として言います。あなたの縫い目は、砂漠を知らない」
厳しい言葉だった。
でも、正しい。
私はリネットの膝布を外し、作業台に置いた。
「教えてください」
サヤは一瞬だけ驚いたような顔をした。
「いいの?」
「知らない場所で、知ったふりをする方が恥ずかしいです」
「……変な奥方ね」
「よく言われます」
ノア様が隣で、小さく咳払いをした。
笑いをこらえているらしい。
その日の夕方、私はサヤと並んで砂除け布を織った。
ルブランで使う救助布は、引き裂きに強く、岩肌に擦れても切れにくい。けれど砂漠の布は違う。風を逃がし、熱を溜めず、砂を抱え込まない。
「糸を締めすぎない」
サヤが言った。
「ゆるくすると弱くなりませんか」
「弱くなる。でも、砂漠では強すぎる布が破れる。風を全部受け止めるから」
全部受け止めるから破れる。
私は手元を見た。
その言葉は、布だけの話ではなかった。
夜、ノア様と宿の屋上に出た。
砂漠の夜は寒かった。昼の熱が嘘のように消え、星が近い。
「今日、少し悔しかったです」
私が言うと、ノア様は手すりにもたれた。
「サヤ殿の言葉ですか」
「はい。正しいから、余計に」
「正しい指摘は、刺さりますね」
「ノア様も経験がありますか」
「あります。初めて鉱山救助を指揮したとき、古い坑夫に『領主様は石の声を聞かない』と言われました」
「石の声」
「どこが崩れそうか、音と匂いで分かるそうです。私はそのとき、地図ばかり見ていました」
ノア様は星を見上げた。
「地図も必要です。しかし、現場にいる人が知っていることも必要です」
私はうなずいた。
リネットは私の作った人形だ。
でも、リネットをどこへでも通用する万能の答えにしてはいけない。
砂漠には、砂漠の針目がある。
それを知らなければ、人は助けられない。




