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婚約破棄の会場に、私だけ欠席していました~王子が断罪した“悪役令嬢”は、私が縫った身代わり人形です~  作者: 小竹X


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後日譚 第十話 温泉地で何もしない練習

 温泉地で何もしないのは、想像以上に難しかった。


 宿は静かで、窓の外には湯煙と冬枯れの林が見える。食事は温かく、部屋には仕事机ではなく低い卓だけ。ノア様は、本当に視察資料を持ってこなかった。


 私は初日の午前中、何度も鞄を開けた。


 中には、針箱がない。


 ノア様が預かったからだ。


「緊急用の針はありますか」


「宿に裁縫箱はあります」


「見てもいいですか」


「必要になったら」


「裾がほつれたら」


「そのときに」


 私は湯飲みを持ったまま、少し落ち着かなかった。


 ノア様は本を読んでいる。仕事の本ではなく、旅の随筆だった。彼も最初は落ち着かないようだったが、私より早く休暇に適応したらしい。


「何もしない練習も、技術です」


 彼は言った。


「難しい技術です」


「最初は五分から」


「救助訓練のようですね」


「近いかもしれません。止まる訓練です」


 私たちは、五分間何もしないことにした。


 窓の外の湯煙を見る。


 鳥の声を聞く。


 湯飲みの温かさを感じる。


 三分ほどで、私は机がないことに気づいて落ち着かなくなった。


「今、作業台の配置を考えましたね」


 ノア様が言う。


「少しだけ」


「五分、やり直しです」


 厳しい。


 けれど、何もしない練習を繰り返すうちに、少しずつ体の力が抜けていった。


 午後、温泉に入った。


 湯は柔らかく、指先の細かい傷にじんわり染みた。針を持つ手、糸を握る指、救助布の銀糸で痛めた爪。自分の体がこれほど働いていたのだと、湯の中でようやく分かった。


 湯上がりに、私はノア様へ言った。


「休むと、痛かったところに気づきます」


「はい」


「だから、忙しい人は休みたがらないのかもしれません。痛みに気づくから」


 ノア様は、少しだけ驚いた顔をした。


「それは、いい記録ですね」


「書きたいです」


「帰ってから」


「はい」


 夜、宿の庭に小さな灯りが並んだ。


 救助の灯りではない。


 ただ、足元を照らすための灯りだ。


 私はノア様と並んで歩いた。何かを調べるためではなく、目的地へ急ぐためでもなく、ただ歩く。


「こういう時間も、必要ですね」


 私が言うと、ノア様はうなずいた。


「必要です」


「でも、帰ったら温泉地用の救助布を考えたいです。湯気で視界が悪い場所や、滑りやすい床に」


「一日目にして、もう用途を見つけましたか」


「見つけてしまいました」


 ノア様は笑った。


「では、帰ってから。今は、灯りを見ましょう」


 私はうなずいた。


 灯りは、赤くない。


 停止糸でも、救助の合図でもない。


 ただ、夜の道を歩くための小さな光。


 何もしない練習は、まだ難しい。


 けれど、私はその夜、針を持たずに眠った。

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