後日譚 第三話 灯台守の日誌
灯台守の日誌は、百年前のものだった。
革表紙は塩で硬くなり、紙の端は波の湿気で波打っている。けれど、字は丁寧で、毎日の風向き、潮の高さ、霧の濃さ、船の通過時刻、崖の崩れた場所が細かく記録されていた。
書いたのは、エルドという灯台守らしい。
彼は日誌の中で、何度も同じことを書いていた。
『海は同じ顔をしない。昨日助かった道が、今日は死ぬ道になる』
その言葉は、救助具にも当てはまった。
私は村の集会所で、日誌を読みながら海用救助布の試作品を縫っていた。ノア様は村長や漁師たちと崖道の修繕計画を話し合っている。新婚旅行の三日目にして、私たちは完全に仕事をしていた。
ただ、午後には必ず休むと約束している。
椅子条項に、旅行条項が追加されたのだ。
漁師の老人が、私の手元を見た。
「奥方様、その布は海に勝てるのかい」
「勝てません」
私は答えた。
「海に勝つ道具ではなく、海に流されてもほどける道具にします」
老人はしばらく考え、うなずいた。
「そりゃいい。海に勝とうとする若いのは、だいたい流される」
彼は自分の網から古い浮き玉を一つ外してくれた。
「これを使いな。軽いが、波で跳ねすぎない」
海用救助布には、浮き玉を小さくしたものを等間隔でつけることにした。布全体が沈まず、かといって波の上を暴れないようにする。解除糸は赤ではなく、夜でも見えるよう赤に光糸を混ぜる。
ノア様が集会を終えて戻ってきた。
「崖道の修繕は、村と領で共同負担にするそうです。灯台の日誌を根拠に、危険箇所を優先します」
「日誌を書いた方は、百年後に使われるとは思っていなかったでしょうね」
「記録は、書いた本人より長く働くことがあります」
その言葉に、私はリネットの記録糸を思い出した。
記録は、誰かの声を未来へ運ぶ。
消されなければ。
夕方、私たちは灯台へ上った。
螺旋階段は狭く、石壁には潮風の跡がある。上に着くと、海が一面に広がっていた。太陽が沈みかけ、水平線が金色に光る。
仕事のことを言わずに、ただ景色を見た。
それは、私たちにとって少し珍しい時間だった。
ノア様が言った。
「旅行らしいですね」
「はい」
「手元が動いています」
見ると、私は無意識に救助布の端を結んでいた。
「これは、休息中の手慰みです」
「手慰みで新しい結び方を試していませんか」
「少しだけ」
ノア様は笑った。
「あなたを完全に仕事から離すのは、海に勝つより難しそうです」
「でも、今は楽しいです」
「なら、よかった」
私は彼の横顔を見た。
結婚しても、劇的に何かが変わったわけではない。朝起きて、食事をし、書類を読み、道具を作り、時々言い合い、椅子に座らされる。けれど、同じ場所へ帰る約束があることは、少し不思議で、温かい。
灯台の下で、村の子どもたちが海用救助布の試験を見ていた。
昨日助けた少年は、少し気まずそうに私の前へ来た。
「箱、持って帰ろうとしてごめんなさい」
「箱より命が大事です」
「うん。あの、ぼく、灯台守になりたい」
彼は日誌を見た。
「毎日書けば、百年後に役に立つかもしれないんだよね」
「はい」
「じゃあ、今日のことから書く」
私は彼に小さな鉛筆を渡した。
「最初の記録には、何を書きますか」
少年は真剣に考えた。
「潮が満ちる前に帰る」
「とても大事です」
ノア様がうなずいた。
日誌の最初としては、申し分ない。




