後日譚 第二話 海蝕洞の赤い糸
海蝕洞にいたのは、三人の子どもだった。
村の漁師の子で、年長の少年が十一歳、妹が八歳、近所の子が九歳。三人とも、潮が満ちる前に出るつもりだったらしい。けれど、奥で見つけた古い箱に気を取られ、帰り道の岩場が水に沈み始めていた。
「歩いて出られますか!」
ノア様が入口から叫ぶ。
「こわい! 水がある!」
妹らしい声が返る。
洞窟の入口付近はまだ通れるが、奥へ行くほど低い。大人が入れば、戻る前に潮に足を取られる危険がある。村の漁師たちは縄を用意していたが、暗い洞窟の中で子どもたちが正確に結べるとは限らない。
私は救助布を広げた。
持ってきていたのは、試験用の短い水流布一本。塩水対策はしていない。使える時間は限られる。
「子どもたちの手に触れさせて、縄の結び方を伝えます」
「布が足りるか」
ノア様が尋ねる。
「ぎりぎりです。奥の空洞まで届けば」
私は救助布の先に小さな光石を結んだ。
赤い解除糸は外へ残す。布が子どもの体に絡まったら、すぐほどけるように。
「行って」
救助布は波に揺れながら洞窟へ入った。
海水の感触は、地下水路と違う。塩が糸にまとわり、布の滑りが重くなる。岩の表面はぬめり、波が一定ではない。私は息を整え、流れに逆らいすぎないように布を進めた。
光石が洞窟の奥へ消える。
やがて、布の先端が小さな手に触れた。
「赤いの来た!」
子どもの声。
「強く引かないで! 触るだけでいいです!」
私は叫んだ。
「今から縄を送ります。年長の子はいますか!」
「ぼく!」
「赤い布の先に縄を結びます。あなたの腰ではなく、岩の出っ張りに通してください。自分の体に巻くと、波で引かれたとき危ないです!」
少年は分かったと言ったが、声は震えていた。
ノア様が低く付け加えた。
「ゆっくりでいい。妹さんには光を持たせて、座らせてください。泣いてもいいが、立たせない」
その言い方は、現場の人間のものだった。
村の漁師たちも、ただ見ているだけではなかった。長い縄を用意し、入口の岩へ固定し、潮の動きを読みながら声をかける。救命具師組合の道具がなくても、彼らには海を知る力がある。
私は救助布に縄を結び、奥へ送った。
波が強くなる。
布が岩に擦れ、糸が傷む感触がした。
塩水は、思った以上に糸を重くする。
覚えておかなければならない。水路用と海用は別だ。海には海の道具がいる。
奥で少年が縄を通した。
「できた!」
「よし。一人ずつ戻ります。最初は小さい子。赤い布に触れながら、縄を持って。転んだら立とうとしないで、膝で進んでください!」
妹が泣きながら出てきた。
村の女たちが入口で毛布を広げる。次に近所の子。最後に年長の少年。彼は古い箱を持って出ようとして、ノア様に鋭く止められた。
「箱は置いてください」
「でも、宝物かも」
「命より軽い宝はありません」
少年はしぶしぶ箱を置いた。
全員が外へ出た直後、潮が入口の岩を洗った。
あと少し遅ければ、夜まで閉じ込められていただろう。
村人たちは口々に礼を言った。私は救助布を引き戻し、傷んだ糸を見た。塩で硬くなり、岩で擦れている。使い回しはできない。
「改善点が多いです」
私が言うと、ノア様は少し笑った。
「新婚旅行初日の感想としては、かなりあなたらしい」
「景色も綺麗でした」
「救助の合間に見ましたか」
「少し」
夕焼けは、たしかに見事だった。
海の向こうが赤く染まり、救助布の赤い糸と同じ色になっている。
年長の少年が、置いてきた箱を気にしていた。村長が翌朝、潮が引いてから大人が取りに行くと言うと、ようやく納得した。
翌朝、箱の中から出てきたのは、古い灯台守の日誌だった。
そこには、崖崩れ、潮、霧、難破船の記録が細かく残されていた。
私はその日誌を読み、海用の救助布の設計を始めた。
新婚旅行は、やはり視察になった。
でも、夕焼けは二日目にきちんと見た。
ノア様が、私の手を握っていたので、作業記録はそのあとになった。




