第43話 木苺パイの後書き
披露宴は、領主館の大広間ではなく、工房前の広場で開かれた。
理由は単純で、工房の方が人が集まりやすかったからだ。鉱夫たちは泥のついた靴を洗って来たし、赤糸学舎の子どもたちは自分で縫った小さな旗を持ってきた。職人たちは祝いの品として、やたら実用的な道具を贈ってくれた。
防水糸巻き。
折り畳み式作業椅子。
耐熱指貫。
雪道用の靴底。
花嫁への贈り物としては珍しいかもしれないが、私はとても嬉しかった。
料理長は、王宮からではなく自分の店から来ていた。
あの火事のあと、彼女も王宮を辞めた。今は王都で小さな食堂を開き、木苺パイが評判だという。今日は大きな籠をいくつも持ってきてくれた。
「お嬢さん、いや、奥方様か」
「コレットでお願いします」
「じゃあ、コレット。あの夜、厨房でパイを食ってた顔は忘れないよ」
「そんなに変な顔でしたか」
「婚約破棄される女の顔じゃなかったね。腹を決めた職人の顔だった」
料理長は、木苺パイを一切れ皿に乗せた。
「ほら、原点だ」
私は受け取った。
甘酸っぱい香り。
薄いパイ生地。
あの夜と同じ味だった。
隣でノア様が興味深そうに見ている。
「これが、婚約破棄の夜のパイですか」
「そうです」
「重要な品ですね」
「はい。断罪会場に出席しなかった理由の一つです」
「理由の一つに入るのですか」
「焼きたてでしたので」
ノア様は真剣にうなずいた。
「それなら仕方ありません」
料理長が大笑いした。
披露宴の途中、レオンス殿下からの手紙を読んだ。
そこには、結婚の祝いと、救命具師組合の王都支部設立に向けた協力について書かれていた。最後に短く、木苺パイの評判を聞いたのでいつか食べに行きたい、ともあった。
私は手紙を畳み、料理長に言った。
「殿下がパイを食べたいそうです」
「並ぶなら出すよ」
「特別扱いなしですか」
「命は取引じゃないんだろ。パイも順番だ」
周囲が笑った。
ミナ様は、赤糸学舎の子どもたちと一緒に小さな合唱を披露した。聖女の賛歌ではなく、結んでほどく歌。子どもたちは途中で歌詞を間違え、ミナ様もつられて笑った。神殿の厳かな歌より、ずっと彼女らしかった。
父は、広場の端で静かにパイを食べていた。
私が近づくと、少しだけ気まずそうにした。
「うまいな」
「はい」
「お前の母も、木苺が好きだった」
「知っています」
「そうか」
それだけの会話だった。
けれど、以前なら交わせなかった会話だ。
マルタ隊長は、ノア様に酒を注ぎながら言った。
「旦那様、奥方を泣かせたら、救助隊総出で説教しますからね」
「肝に銘じます」
「説教だけで済むと思うなよ」
「肝に深く銘じます」
ノア様は真面目に答えた。
ニナは私の隣に座り、ようやく落ち着いた顔でパイを食べていた。
「お嬢様」
「今は奥方様では?」
「呼び慣れません」
「私も聞き慣れないから、お嬢様でいいわ」
ニナは笑った。
「私、あの夜、火事の中でリネットに抱えられているとき、もう終わりだと思いました。でも、目を開けたら、お嬢様がいました。今も、たぶん同じです。怖いことがあっても、目を開けたら誰かの手がある。そういう仕事を、私も続けたいです」
私は、彼女の手を握った。
「一緒に続けましょう」
リネットは広場の中央で、子どもたちに囲まれていた。
赤い停止点を触られそうになるたび、平らな声で「停止糸は緊急時のみ」と説明している。子どもたちは面白がって、緊急時とは何かを質問していた。
ふと、リネットがこちらを向いた。
「コレット」
「何?」
「パイ、摂取不可。記録のみ可能」
「味の記録をする?」
「希望」
私はパイを一口食べた。
「甘酸っぱくて、少し温かい。パイ生地は軽い。あの夜より、安心して食べられる味」
リネットは少し首を傾けた。
「記録、完了」
人形が味を分かるわけではない。
でも、その記録はいつか、何かの役に立つかもしれない。
披露宴の終わり、私は工房の前に立った。
木札には、今もマルタ隊長の落書きが残っている。
『人形に用がある者は、まず靴の泥を落とせ』
その下に、ニナが新しい札を掛けた。
『救命具師組合。止め方を知らない人には、貸しません』
私は笑った。
この物語は、婚約破棄から始まった。
けれど、終わりはそこではない。
木苺パイを食べ、泥のついた靴を洗い、赤い糸を見える場所に置きながら、明日も誰かの手へ糸を伸ばす。
それが、私の選んだ続きだった。




