第40話 命は取引ではありません
地下から、レオンス殿下の声が聞こえた。
「コレット!」
切迫した声だった。
昔、彼が私を呼んだ声とは違う。命令でも、苛立ちでもない。暗闇で、誰かに届いてほしいと願う人の声。
「子どもの足が挟まっている。人形が支えているが、天井が」
声の向こうで、石が落ちる音がした。
リネットの記録糸が、状況を返す。
下段の小部屋。子ども二人。一人は動ける。もう一人は足を木材に挟まれている。リネットは右腕で落ちた梁を支え、左手で子どもの頭を守っている。三十呼吸の保持命令が始まっている。
三十。
二十九。
二十八。
私は指先で数えた。
ノア様が救助隊へ指示を出す。
「右側の支柱を入れろ。床を広げるな。下段へ縄梯子を。人は一人ずつ」
マルタ隊長が救助隊員を選ぶ。
「軽い奴、二人。道具は最小限。子どもの足を外す木楔を持て」
王都衛兵たちも支柱を運んでいる。さきほどまで祭りの警備をしていた人々が、ルブラン救助隊の号令で動いていた。王都か辺境かは、もう関係ない。
地下から、殿下の声が再び聞こえた。
「コレット、私を後でいい。だが、もし取引が必要なら」
「必要ありません!」
私は反射的に叫んだ。
周囲が一瞬静かになる。
「命は取引ではありません。殿下を助けるから罪を軽くしてほしいとか、子どもを助けるから謝罪を取り消すとか、そういう話ではありません。助けられる順に助けます。今は黙って、子どもに声をかけてください」
地下で、短い沈黙があった。
やがて、殿下が言った。
「分かった」
彼の声が、子どもへ向いた。
「聞こえるか。私はレオンスだ。昔、王子だった。今は足を挟んで動けない大人だ。君の方が先に出る。怖いなら、私も怖いから一緒だ」
子どもが泣く声がした。
殿下は続けた。
「赤い糸を見て。そこに手がある。人形の手だ。外につながっている。離さなくていい」
私は、指先で数え続ける。
二十一。
二十。
リネットの右腕に負荷がかかっている。木の骨が軋む感触が糸を通じて返ってくる。
ニナが隣で泣きそうな顔をしていた。
「お嬢様、保持命令を延ばせませんか」
「延ばせば、支えたまま壊れます。壊れたら梁が落ちる」
「でも」
「三十呼吸で解除。そこまでに人間が支える」
止められない道具は作らない。
保持し続ける人形は、英雄ではなく危険物になる。リネットが壊れることを恐れているのではない。いや、恐れている。でも、それ以上に、壊れた人形が子どもを潰すことが怖い。
十八。
十七。
救助隊員が地下へ入った。
縄梯子を降り、狭い通路を進む。糸鼠が先導し、救助布が手元の位置を示す。リネットの赤い停止糸が、暗闇で小さく光っている。
十五。
十四。
マルタ隊長が叫ぶ。
「梁に手をかけるな! 下から楔! 人形の腕の下に支柱を入れろ!」
地下から隊員の声。
「支柱、入ります!」
十二。
十一。
リネットの右腕の糸が切れかける。
私は銀糸を握る手を強くした。魔力を流しすぎれば、命令が歪む。足りなければ腕が落ちる。針先で薄布を縫うように、細く、まっすぐ。
十。
九。
殿下の声。
「もう少しだ。君は外で何を食べたい?」
子どもが泣きながら答える。
「焼き栗」
「よし。私も食べる。王宮の料理より、祭りの焼き栗の方がうまい」
八。
七。
救助隊員が叫ぶ。
「支柱、入りました!」
マルタ隊長。
「人形の保持を少し抜け!」
私は命令を調整した。
保持を減らす。
支柱へ渡す。
リネットの腕から、重さが少しずつ抜ける。
五。
四。
子どもの足を外す。
三。
二。
一。
「解除」
リネットの右腕が落ちた。
同時に、支柱が梁を受けた。
地下から歓声が上がる。
子どもが救助隊員に抱えられ、縄梯子へ向かう。もう一人の子どもも続く。レオンス殿下は最後だ。
私は膝から力が抜けそうになった。
ノア様が背中を支えた。
「椅子はありませんが、支えます」
「ありがとうございます」
笑いたかったが、声が出なかった。
子ども二人が地上へ出た。
一人は焼き栗と泣きながら繰り返し、もう一人は赤い停止糸を握っていた。医療所がすぐに毛布で包む。
最後に、レオンス殿下が引き上げられた。
右足を怪我しているが、意識はある。彼は地上へ出ると、最初に子どもたちを見た。
「生きているな」
マルタ隊長が答える。
「生きてるよ。殿下もな」
殿下は、私を見た。
「ありがとう」
「救助隊に言ってください」
「言う。だが、君にも」
私はうなずいた。
そこへ、地下からリネットが戻ってきた。
右腕は肘から先がぶら下がり、灰銀の上着は破れ、顔には白い布の跡がついている。それでも、自分の足で歩いてきた。
「任務、完了」
その声を聞いた瞬間、ニナが泣いた。
私も、今度は少し泣いた。




