第33話 共同経営の申し込み
秋が近づくころ、ルブラン救助具試作室は、試作室という名前では収まらなくなっていた。
リネット四九番。
糸鼠六体。
赤い鳥五体。
救助布三十本。
水路用の浮き布、坑道用の防塵布、雪崩用の音糸、医療所向けの握り布。すべてに停止糸と登録番号をつけ、使用記録と点検記録を残す。鍛冶場、木工場、織物職人、救助隊、医療所、赤糸学舎が関わるようになり、私一人の工房ではなくなっていた。
ノア様は、正式な組織化を提案した。
場所は、工房ではなく領主館の執務室。
机の上には、事業計画書、予算案、職人登録制度、王国監査院への報告書案が並んでいる。王太子妃教育で見慣れた書類より、ずっと泥と汗の匂いがする内容だった。
「名称は、ルブラン救命具師組合」
ノア様が言った。
「あなたを初代技術監督として迎えたい」
「技術監督」
「はい。製作基準、停止糸の規格、記録管理、職人教育を担当してもらいます。私は領主として資金と法的保護を用意する。マルタ隊長は現場試験。ミナ様は赤糸学舎での基礎教育。ニナは工房主任補佐」
ニナが、隣で固まった。
「私ですか」
「あなたです」
ノア様は平然と言った。
「救助布の量産で、あなたの針目が最も安定していると報告を受けています」
ニナは真っ赤になった。
「お嬢様、私、主任補佐ですって」
「おめでとう。仕事が増えます」
「喜びと恐怖が同時に来ました」
私は書類を読み込んだ。
予算、材料調達、職人の賃金、事故時の責任範囲、救助具の貸与制度。どれも現実的だ。夢ではなく、動かすための計画になっている。
ただ、一つだけ気になる項目があった。
「ノア様。この出資比率ですが」
「はい」
「ルブラン家が七割、私個人が三割になっています」
「あなたの母君の型紙と、あなた自身の技術が基礎です。無償提供にはできません」
「ですが、私は大きな資金を出せません」
「出資は金銭だけではありません。技術、型紙、登録制度、教育体系。あなたが出しているものは、金貨では測りにくい」
私は書類を見つめた。
王宮にいたころ、私はずっと家や王家のために技術を使っていた。私の仕事は、当然のように無償で吸い上げられていた。母の型紙も、白糸工房に奪われかけた。
ノア様は、それを共同経営として扱おうとしている。
「私に、所有権を持たせるのですか」
「はい」
「あとで面倒では」
「面倒です」
即答だった。
「ですが、面倒を避けるために技術者から権利を奪うと、白糸工房と同じ構造になります」
その言葉で、私は書類を閉じた。
「分かりました。受けます」
ニナが小さく拍手した。
ノア様は、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。ですが、一つ条件があります」
「何でしょう」
「組合の規約に、停止糸と同じように、職人が仕事を止められる権利を入れてください。危険、過労、不正命令、記録の隠蔽がある場合は、職人が制作を停止できること」
ノア様は、ゆっくりとうなずいた。
「必要な条項です」
「前世の私は、それがない職場で死にました」
ニナが息を呑む。
私は初めて、彼女の前で前世の死をはっきり言った。
「今世では、止まれる工房を作りたいです」
「入れましょう」
ノア様は新しい紙を取り、すぐに書き始めた。
職人停止権。
不正命令拒否権。
点検休暇。
記録公開。
書き並べられていく文字を見ながら、私は不思議な気持ちになった。
停止糸は、人形のためだけではなかった。
人間にも必要なのだ。
会議が終わるころ、窓の外には夕焼けが広がっていた。
ノア様が書類をまとめ、ふと真面目な顔で私を見た。
「コレット嬢」
「はい」
「これは、仕事の申し込みです」
「今、受けました」
「もう一つあります」
ニナが、なぜか静かに部屋を出ようとした。
「ニナ?」
「水を、汲みに」
「そこにあります」
「心の水です」
意味の分からないことを言って、彼女は出ていった。
ノア様は、少し困った顔をした。
「本当は、組合設立のあとに言うつもりでした」
「何をですか」
「あなたと、これからも一緒に仕事をしたい。領主と技術監督としてだけでなく、人生の共同経営者として」
私は瞬きした。
言葉は落ち着いている。
けれど、耳まで少し赤い。
「求婚ですか」
「はい。ただし、今すぐ返事を求めるものではありません」
「共同経営の申し込みに続けて求婚されるとは思いませんでした」
「分けるべきでした」
「いえ、ノア様らしいです」
私は窓の外を見た。
王太子妃になるための婚約は、十歳の私に与えられた役目だった。
ノア様の言葉は違う。
私の仕事を見たうえで、私の停止糸も、権利も、過去も含めて、一緒に経営したいと言っている。
「返事は、組合が正式に動いてからでもいいですか」
「もちろん」
「それまでに、共同経営者としてのノア様をもう少し監査します」
ノア様は、真面目にうなずいた。
「必要な監査です」
廊下の向こうで、ニナが小さく叫んだ。
「お嬢様らしい!」
聞いていたらしい。
私は少しだけ顔が熱くなった。




