第30話 人形に名前を呼ばれた日
地下水路の救助が終わったあと、リネットは三日間動かなかった。
直接水に入ったわけではない。けれど、救助布の補助、予備糸の運搬、証拠保全、子どもの誘導、壊れた屋台の下の確認。右手を修理しきらないまま動かしたせいで、関節糸がひどく傷んでいた。
私は工房の作業台にリネットを寝かせ、右手を外した。
木の指は一本折れ、二本は刃傷で割れている。手首の銀糸もほつれていた。人形は痛みを感じない。そう分かっていても、私の胸は痛かった。
「今回は無理をさせすぎました」
ニナが、隣で糸を巻きながら言った。
「私が?」
「お嬢様も、リネットも、ノア様も、みんなです」
「ニナもよ」
「私は途中で寝ました」
「倒れるようにね」
ニナは少し笑った。
工房には、救助後に街の人々から届いたものが並んでいた。果物、焼き菓子、手袋、古い布、壊れた人形の修理依頼。救助具試作室は、いつの間にか街の小さな相談所になりつつある。
その中に、ユリスからの手紙があった。
『赤い鳥は元気です。父さんは足がまだ痛いけど、毎朝鳥に挨拶しています。鳥の名前はアカです』
そのままの名前だ。
私は笑い、リネットの胸に新しい記録糸を入れた。
「リネット、起動確認」
反応はない。
もう一度、命令糸をつなぐ。
「リネット四九番。返事をして」
沈黙。
ニナが不安そうに私を見る。
私は焦らないよう、深く息を吸った。記録糸は無事だ。胴体の芯も折れていない。問題は、右手の損傷によって命令の循環が途切れていること。手は、リネットにとってただの部品ではない。触れる、持つ、離す。その命令が多く集まる場所だ。
なら、右手を仮でつなぐだけでは足りない。
触れる命令を、胸へ戻す。
私は母の型紙を参考に、解除糸を外へ出す形で新しい手首を作った。右手の甲に、小さな赤い点を縫う。止まるための印。人を傷つけないための印。
夕方、ノア様が工房へ来た。
「状況は」
「まだ返事がありません」
彼は作業台のリネットを見た。
「人形に眠りという言葉は合いますか」
「合わないと思っていました」
「今は?」
「少し、合う気がしています」
私は自分の言葉に戸惑った。
リネットは人間ではない。意思があるわけでも、痛みを感じるわけでもない。そう線を引くことは大事だ。そうしなければ、道具として危険な場所へ送れなくなる。
けれど、道具だから粗末にしていいわけではない。
前世の劇場でも、衣装は布だった。布に命はない。けれど、舞台に出る人を支え、汗を吸い、照明を浴び、拍手を受ける。だから、誰もが本番後の衣装を床に投げ捨てることを嫌った。
リネットも同じだ。
命はない。
でも、仕事をしてきた。
「リネット」
私は額に手を置いた。
「戻って」
銀糸が、かすかに震えた。
リネットの唇が動く。
「……コレット」
私は手を止めた。
ニナが息を呑む。
ノア様も、目を見開いた。
リネットは、これまで私を「所有者」や「コレット嬢」と呼ぶことはあった。けれど、それは定型文として入れたものだ。今の声は、記録糸の奥からこぼれたように聞こえた。
「今、名前を」
ニナが震える声で言う。
リネットは、もう一度口を開いた。
「コレット、命令確認。救助布、継続。右手損傷。修理、必要」
私は、息を吐いた。
やはり、人間のような意思ではない。記録糸に残った私の声を拾い、命令確認の中で呼び方が変わったのかもしれない。
それでも、胸が熱くなった。
「おかえり、リネット」
「帰還、確認」
ニナが泣き出した。
「ニナ、泣かないで。修理糸が濡れる」
「無理です」
ノア様は、静かに笑った。
「修理完了後、リネット四九番にも休暇が必要ですね」
「人形に休暇ですか」
「救助隊では、道具の点検日を休暇と呼びます。そう言うと、隊員が丁寧に磨く」
「では、リネットにも点検休暇を」
リネットが平らな声で言った。
「休暇、未登録」
「あとで縫います」
工房に、久しぶりに柔らかな笑いが広がった。
その夜、私はリネットの右手を最後まで直した。完全に元通りではない。刃傷の跡は残り、手の甲には赤い停止点がある。
でも、それでいい。
救助具は、傷がないことより、傷の理由を忘れないことの方が大事だ。
私は作業記録に書いた。
『リネット四九番、右手改修。接触解除を外部表示。名称認識に変化あり。経過観察。点検休暇、導入検討』
最後の一文を見て、少し笑った。
王宮の婚約者だったころ、私はこんな記録を書く日が来るとは思わなかった。
でも今の私は、この一文をとても大事だと思っている。




