第29話 ノアが失った妹
最初の三人が救出されたのは、日没前だった。
泥水に濡れ、唇は紫色になっていたが、全員生きていた。医療所の人たちが毛布で包み、温かい湯を少しずつ飲ませる。広場に集まっていた家族たちは泣きながら抱き合った。
だが、まだ奥に人がいる。
排水孔から救助隊員が入り、支柱を入れながら少しずつ進む。水位は下がったが、崩れた石は不安定だ。救助布は奥の空洞まで届いている。私は銀糸を握り、触れた手の数を確認し続けた。
夜になり、交代の時間が来た。
マルタ隊長が私の肩に手を置く。
「嬢ちゃん、交代」
「まだ」
「まだ、じゃない。指が紫になってる」
見ると、銀糸を握っていた指先が冷えて変色していた。
ニナが近づき、私の手から糸を受け取った。
「私が持ちます。命令は変えません。触れたら合図だけします」
「でも」
「お嬢様が倒れたら、誰が次の命令を入れるんですか」
その言い方は、私の逃げ道をきれいに塞いだ。
私はうなずき、糸を渡した。
少し離れた石段に座ると、急に体が重くなった。ノア様が温かい外套を肩にかけてくれた。
「休むのも救助の一部です」
「分かっているつもりでした」
「つもりは、現場ではよく剥がれます」
ノア様は隣に座った。
広場の灯りが、彼の横顔を照らしている。泥のついた手袋、濡れた袖、目の下の疲れ。領主として全体を見ている彼も、休んでいない。
「ノア様も休んでください」
「私は座っています」
「それは休んでいるふりです」
「あなたに言われると、説得力が痛いですね」
彼は少しだけ笑った。
しばらく、二人で広場を見ていた。
救助隊が動き、医療所が湯を運び、住民が毛布を畳む。泣き声、指示の声、水の音。春祭りのための飾り布は泥にまみれているが、その一部は避難者の目隠しや防寒に使われていた。
「この街で、妹を亡くしました」
ノア様が、唐突に言った。
私は彼を見た。
「妹君を?」
「はい。八年前、旧北坑道で崩落がありました。妹は鉱山技師見習いでした。まだ十六で、現場へ弁当を届けるついでに測量を見せてもらっていた」
声は静かだった。
静かすぎるほどに。
「崩落後、声は聞こえていました。細い穴から水を少し送れた。けれど、人は入れなかった。岩を動かせば全体が崩れる。道を掘るには時間が足りない。妹は二日目の夜まで返事をしていました」
私は言葉が出なかった。
誰かの手を最初に握れるかもしれない。
ノア様が最初に私へ言った言葉の重さが、今になって胸に沈む。
「最後に聞いた声は、『兄上、外の雪は止みましたか』でした」
彼は広場を見たまま続けた。
「私は嘘をつきました。止んだ、と。本当は吹雪でした。妹は、そうですか、と言った。それが最後です」
私は外套の端を握った。
「ノア様」
「同情を引きたいわけではありません」
「分かっています」
「私は、あの日から救助隊を変えました。支柱の規格を見直し、連絡穴を増やし、事故記録を隠さないようにした。それでも、声が聞こえるのに手が届かない場面は残った」
彼の視線が、救助布へ向く。
「あなたの人形を見たとき、妹の手を思い出しました。人が入れない場所へ、最初に届く手。私はそれを、ずっと探していたのだと思います」
私は、何を言えばいいのか分からなかった。
慰めは軽すぎる。
謝罪も違う。
だから、正直に言った。
「私は、ノア様の妹君を救えません」
「はい」
「過去の手には届きません」
「はい」
「でも、これから落ちる人の手には、届かせたいです」
ノア様は、ゆっくりとうなずいた。
「それで十分です」
しばらくして、ニナが叫んだ。
「奥から合図! 残り二名、動けます!」
私たちは同時に立ち上がった。
休憩は終わりだ。
最後の救出は、夜明け近くになった。
救助隊員が一人を背負い、もう一人を支えながら排水孔から出てくる。最後の一人は、足に怪我をした石工だった。彼は外へ出るなり、救助布を握ったまま泣いた。
「この布が、ずっと手にあった」
その言葉を聞いて、私は母の型紙を抱きしめた。
ノア様は、少し離れた場所で空を見上げていた。
夜明けの空に、雪は降っていない。
私は彼の隣に立った。
「止みましたね」
ノア様は、目を閉じた。
「はい」
八年前に届かなかった言葉が、今朝、ようやくどこかへ届いた気がした。




