第28話 水路に伸びる救助布
旧市街の地下水路は、鉱山とはまったく違う危険を持っていた。
坑道は、岩が重い。空気が淀む。崩れたら道が塞がる。
水路は、流れが動く。足元が奪われる。天井が低く、水が少し増えるだけで息をする空間が消える。
広場の陥没穴の周囲では、救助隊が縄を張り、住民を下がらせ、医療所の者たちが毛布と湯を用意していた。春祭りのために飾られていた色布は泥に汚れ、屋台の看板が割れている。
奥から声がした。
「誰かいるか!」
マルタ隊長が叫ぶ。
「いる! 水が上がってる!」
穴の向こうに、狭い空洞があるらしい。子どもの泣き声も聞こえた。だが、直接降りれば、崩れた石がさらに落ちる危険がある。旧図面は当てにならない。白糸工房の補修布が石壁のひびを隠していたなら、見た目よりも脆い。
私は母の型紙を広げた。
救助布は、人型ではない。長い帯だ。布の先端に細い触覚糸を入れ、外側には赤い解除糸を出す。水に流されても、引けばほどける。人を縛らず、触れて、位置を知らせ、軽い物資を運ぶ。
「リネットは水に弱いです。今回は救助布を使います」
マルタ隊長がうなずく。
「水の中を蛇みたいに行かせるのか」
「はい。ただし、命令は単純です。流れに逆らわず進む。人の熱を探す。触れたら止まる。赤糸を引かれたらほどける」
「人を引っ張れるか」
「無理です。合図と小さな物を運ぶだけです」
「それでいい。まず場所が分からないと何もできない」
ニナが、救助布の端を私に渡した。
縫い目は少し急いでいるが、要所はきちんと押さえられている。母の型紙に、ニナの針目。私の命令糸。三人分の仕事が一本の布になっている。
「行って」
私は救助布を水路へ入れた。
布は水に沈まず、流れに乗って穴の奥へ滑っていく。銀糸が水の冷たさを拾う。石、木片、泥、空気の泡。坑道より情報が多く、指先が混乱しそうになる。
落ち着いて。
水の流れを読む。
前世の劇場で、長い裾を舞台で引きずらせないために、重心を読む練習をした。布は流れる。人の動きでも、水でも、空気でも。逆らいすぎると絡む。流れに少し乗せて、必要なところだけ引く。
救助布の先端が、温かいものに触れた。
人。
すぐに赤い解除糸をゆるめる。布が手首に絡まないよう、触れるだけで止める。
「一人目、確認。穴の奥、右側の低い空洞です」
救助隊が地図に印をつける。
さらに進ませる。
二人目。
三人目。
小さな手。
子どもだ。
「子どもがいます。救助布に触れています」
奥から声がした。
「赤い布が来た! これ、引いていいのか!」
「引かないで!」
私は叫んだ。
「触っているだけでいいです! 赤い糸を強く引くと、布がほどけます!」
声が返る。
「分かった! 子どもが握ってる!」
私は小さな防水袋を救助布の端に結んだ。中には、短い合図表と、甘い干し果実、そして小さな蝋燭代わりの光石。
「届けます」
布に命令を足す。
水に流されないよう、石の角を避け、空洞へ。
救助布が奥へ進む。
しばらくして、声が上がった。
「光だ!」
周囲の人々がざわめく。
暗い水路の中で、小さな光が届いた。それだけで、閉じ込められた人たちの声に力が戻る。
ノア様は、水路図を見ながら石工へ指示を出していた。
「この壁の裏に旧排水孔がある。上から掘るより、横から開ける。水位が上がる前に流れを逃がす」
「図面では塞がっています」
「図面が間違っている。救助布の水流反応では、細い空気がある」
石工たちが動く。
マルタ隊長は縄を確認し、救助隊員を二組に分けた。
「一組は排水孔。二組は穴の支え。医療所は低体温の準備。見物人は下げろ。泣いてる親には誰かつけろ。待つのがいちばん苦しい」
その指示に、街の人々も従った。
救助布は、奥で何度も触れられた。
誰かが祈るように握り、子どもが泣きながら頬に当て、大人が合図表を読み上げる。布そのものは、軽くて頼りない。けれど、向こうとこちらがつながっている証だった。
水位は少しずつ上がっていた。
私は指先が冷えていくのを感じながら、命令糸を保つ。
リネットは私の隣に立ち、予備の布を持っている。水に入れない人形が、せめて人間の手元を支えるように。
「コレット嬢」
ノア様が近づいた。
「排水孔を開けます。水の流れが変わる。救助布が引き込まれるかもしれません」
「赤糸を引けばほどけます。ただ、奥の人たちとのつながりが切れます」
「切らずに保てますか」
「やってみます」
「無理なら切ってください。布より人です」
「分かっています」
その言葉を聞いて、母のメモを思い出した。
解除糸を見える場所に置く。
止められない道具は作らない。
排水孔が開いた。
水が唸るように動いた。救助布が強く引かれ、私の指に銀糸が食い込む。
奥から叫び声。
私は赤糸を握った。
切るか。
保つか。
布の先で、子どもの手がまだ触れている。
ただの接触。握っていない。絡んでいない。なら、流れに合わせて布を伸ばせる。
「ニナ、二番布を継いで!」
「はい!」
ニナが予備の救助布を走って持ってくる。
私は母の型紙どおり、外側の解除糸を残したまま中央の誘導糸だけを継いだ。布が長くなる。水の流れに逃げ道ができる。
救助布は切れなかった。
奥から声がした。
「水が下がってる! 足が動く!」
広場に安堵が広がった。
けれど、まだ終わりではない。
排水孔から救助隊員が入る準備を始めた。
人形でも布でもない。
最後は、人が人を抱えて出す。
私の仕事は、その手前まで道を作ることだった。




