第27話 急ぎの帰路
王都からルブラン領へ戻る馬車は、来たときよりずっと重かった。
積み込んだものが増えたせいもある。白糸工房の帳簿の写し、母の型紙、地下作業場から保護された子どもたちの名簿、監査院からの協力要請書。リネットの右手は応急修理のまま、箱の中には糸鼠と赤い鳥が詰められている。
けれど、いちばん重いのは、急使の言葉だった。
グラン・エリオ旧市街の地下水路で陥没。
春祭りの準備中、広場の一部が沈み、屋台の職人、石工、子どもを含む十数名が地下に落ちた可能性あり。
白糸工房の帳簿には、旧市街水路へ納めた補修布の記録があった。用途は、石壁の湿気止め。けれど、白縛り布と同じ系統なら、石を乾かすどころか、内部のひびを隠していた可能性がある。
私たちは馬車を急がせた。
ノア様は道中、領へ送る指示書を次々に書いた。救助隊の召集、医療所の準備、商人組合への資材提供依頼、旧水路図面の回収、祭りの中止。彼の字は速いのに読みやすい。
私は向かいで、母の型紙を広げていた。
『救助布・初期案』
紙は古い。端は黄ばみ、折り目が擦れている。けれど、線は正確だった。人形のように形を持つのではなく、布そのものを細い帯にして危険箇所へ滑り込ませる設計。先端に触覚糸、中央に記録糸、外側に解除糸。布は人を包むためではなく、手首や足首に絡まず、触れて位置を知らせるために作られている。
母の考えは、私のリネットよりさらに現場向きだった。
私はそのことが嬉しく、同時に悔しかった。もっと早く知っていれば。母の箱を、ただ懐かしい遺品としてではなく、未完成の仕事として読んでいれば。
「コレット嬢」
ノア様が書類から顔を上げた。
「急ぐときほど、自分を責める材料を探す人がいます」
「私の顔に書いてありましたか」
「手元に」
見ると、型紙の端を強く握りすぎて、紙が少し曲がっていた。
私は力を抜いた。
「母の技術を、私は知らないままでした」
「知らされなかったのでしょう」
「それでも、母の箱は私の手元にありました」
「箱を開けるには、開けられる時期があります」
ノア様は静かに言った。
「あなたは王宮で生きるために、王太子妃になる勉強をしていた。母君の型紙を読む余裕がなかったのは、怠慢ではありません」
その言葉は、私の中の硬いところに触れた。
私は型紙を丁寧に広げ直した。
「ノア様は、いつも人を責める前に条件を見ますね」
「救助では、責任者を罵るより先に、梁と空気と水を見ます。罵るのは、生きて出してからでもできます」
「罵るのですか」
「必要なら」
少しだけ笑ってしまった。
馬車は夜も走った。途中の宿駅で馬を替え、最低限の休憩だけを取る。ニナは揺れる馬車の中で、母の型紙をもとに細い救助布を縫い始めた。彼女の針目は、火事の夜よりずっと安定している。
「ニナ、疲れたら止めて」
「お嬢様も止めてくださるなら」
「私は」
「止めないでしょう。だから私も、止まりません。ただ、交代はします」
ニナはそう言って、予備の布を私へ渡した。
止まらないのではなく、交代する。
救助隊で覚えた言葉だった。
リネットは、馬車の隅で右手を膝に置いて座っている。仮の指はまだ不格好だ。けれど、彼女は時々、母の型紙を見ているように顔を向けた。
「リネット、何か分かる?」
「型紙、四九番と類似点あり。解除糸、外部配置。停止命令、優先」
「母の考えと、私の考えが似ていたのね」
「継承、確認」
その言葉に、胸が詰まった。
母はもういない。
けれど、針目は残っている。型紙は残っている。私がリネットに入れた停止糸は、知らず知らずのうちに、母の仕事と同じ方向を向いていた。
夜明け近く、馬車の窓からグラン・エリオの煙突が見えた。
いつもなら煙がまっすぐ上がる街の上に、今朝は低い霧がかかっている。旧市街の方角に、灯りがいくつも集まっていた。
救助隊の灯りだ。
馬車が止まる前に、マルタ隊長が駆け寄ってきた。
顔は煤と泥で汚れ、目は眠っていない人のものだった。
「遅い」
「最速です」
ノア様が答える。
「分かってる。状況を言うよ」
マルタ隊長は私を見た。
「地下水路の天井が三か所落ちた。生存確認は八名。行方不明は五名。水位が上がってる。旧図面が間違ってる。糸鼠は使ったが、流れが速くて二体持っていかれた」
私は荷台から救助布の包みを降ろした。
「新しいものがあります。母の型紙です」
マルタ隊長は一瞬だけ眉を上げた。
「なら、母ちゃんにも働いてもらおう」
その言い方に、不思議と救われた。
私たちは旧市街へ走った。
広場の中央には、大きな穴が開いていた。
春祭りの飾り布が泥水に沈み、倒れた屋台の木材が水路の入口を塞いでいる。穴の奥から、水の音と、遠い声が聞こえた。
こん、こん、こん。
また、叩く音。
私は母の型紙を胸に当てた。
今度は坑道ではない。
水の中だ。
届かせる手を、変えなければならない。




