第25話 母の型紙
白い布は、切られると声のような音を立てた。
実際に声があるわけではない。命令糸がほどけるときの振動が、耳に悲鳴のように届くだけだ。けれど、地下作業場でその音を聞くと、布そのものが抵抗しているように感じた。
私は母の裁ち鋏を動かした。
切る。
ほどく。
子どもの腕から外す。
また切る。
白布の命令は単純だが、量が多い。止まれ、黙れ、忘れろ。人の恐怖に絡めば、それだけで足が重くなる。衛兵の一人が膝をつき、別の係官は自分が何をしているのか分からない顔で立ち尽くしていた。
リネットは、鋏を持って動いていた。
刃で傷ついた右手は応急修理のままだ。それでも、関節糸を軋ませながら白布を切る。停止糸が外から見えるよう、ニナが縫い直してくれた袖が揺れる。
「ミナ様、子どもたちをこちらへ」
私は叫んだ。
ミナ様は、震えながらも子どもたちを誘導していた。癒やしの光を使い、恐慌を起こした少年の呼吸を整える。聖女の力は、本来こう使われるべきものなのだと思った。
ノア様は落ちた棚を支え、出口への通路を確保している。
地下の奥では、まだ鐘が鳴っていた。自動で作動した仕掛けか、誰かが別室から鳴らしているのか。どちらにせよ、証拠を閉じ込めて消すための仕組みだ。
王宮火災と同じ。
都合の悪いものは、燃やすか、閉じ込めるか、忘れさせる。
「忘れないで」
私は子どもたちに言った。
「怖いことを全部思い出せとは言いません。でも、今ここから出ることは忘れないで。足を動かして。私の声を聞いて」
少女が、包帯の手で私の袖を握った。
「あなたは、白糸の人じゃない?」
「違います」
「でも、針を持ってる」
「針は、縛るためにも使える。ほどくためにも使える。私はほどく方です」
少女は、少しだけうなずいた。
最後の子どもが階段へ向かったあと、私は奥の棚へ走った。
「コレット嬢!」
ノア様の声が飛ぶ。
「すぐ戻ります」
帳簿だけではない。
母の名前があった記録の近くに、型紙保管箱と書かれた棚があった。白布が降り続ける中、私は棚の引き出しを開ける。
古い型紙がいくつも入っていた。
祈祷衣、代理人形、沈黙布、忘却布。
その下に、見覚えのある薄茶の紙があった。
母の筆跡。
『救助布・初期案。人を縛らず、手を探すための布。危険箇所へ入れる前提。命令は短く、解除を必ず外へ出すこと』
私は息を止めた。
母は、私と同じことを考えていた。
身代わり人形ではなく、救助のための布。
白糸工房は、それを人を縛る布へ変えたのか。
紙の端には、母のメモがある。
『命令糸に善悪はない。だから、解除糸を見える場所に置く。止められない道具は作らない』
停止糸。
私がリネットにつけた赤糸と同じ考えだ。
私は型紙を胸に抱えた。
その瞬間、背後の棚が倒れた。
白布が視界を塞ぐ。足が絡まる。命令が耳の奥へ入ってくる。
止まれ。
忘れろ。
忘れろ。
母の顔が遠くなる。
王宮の夜会が遠くなる。
自分がなぜここにいるのか、一瞬分からなくなる。
袖が締まった。
ニナの停止糸。
深灰のドレスの袖に縫い込まれた銀糸が、私の手首をきゅっと締めた。人形用ではない。ただの合図。けれど、その感触が私を戻した。
止まる。
忘れるためではなく、思い出すために。
私は母の鋏で足元の布を切った。
「コレット!」
ノア様が、初めて敬称なしで呼んだ。
白布の向こうから腕が伸びる。
私はその手を掴んだ。
彼の手は温かかった。
外へ出ると、神殿の中は騒然としていた。子どもたちは医師に診られ、衛兵が地下入口を封鎖している。ミナ様は疲れ切った顔で座り込んでいたが、子どもたちのそばを離れなかった。
私は型紙を抱えたまま、床に座った。
ノア様が膝をつく。
「怪我は」
「少しだけです」
「少しだけと言う人の怪我は、たいてい少しではありません」
「手首を締めただけです」
私は袖の停止糸を見せた。
ノア様はそれを見て、深く息を吐いた。
「ニナに礼を言わなければ」
「はい」
私の手の中には、母の型紙があった。
救助布。
解除糸。
止められない道具は作らない。
私は母が死んだ理由を、まだ知らない。
けれど、母が何を守ろうとしたのかは、少し分かった。
白い布に奪われたものを、赤い糸で取り戻す。
それが、私の仕事の次の形になる。




