第22話 逃げた礼典副長
クレマンが消えた控室には、窓がなかった。
扉の前には衛兵が二人。通路には記録係。逃げ道は、表向きにはない。にもかかわらず、控室の中には空の椅子、冷めた茶、そして床に落ちた白い糸だけが残っていた。
審問は一時中断された。
監査院の係官たちは慌ただしく動き、王宮衛兵が廊下を封鎖する。王太子殿下は顔色を変え、神殿側の使者たちは互いに視線を交わしている。
私は控室の床に膝をついた。
白い糸は、普通の絹糸に見える。けれど、指で触れると、奥にざらついた命令が残っていた。
「何か分かりますか」
ノア様が尋ねた。
「引く、隠す、軽くする。そんな命令です。人を消すというより、存在を薄くする布に近い」
「人間を運ぶ道具か」
「おそらく、衣装です」
私は控室の壁を見た。
鏡がある。貴族が身だしなみを整えるための大きな姿見だ。鏡の縁に、白い糸が一本引っかかっている。
前世の劇場で、私は何度も早替えを見た。
舞台袖の暗がりで、役者は一瞬で衣装を変える。観客は驚くが、裏側は単純だ。隠し紐、面ファスナー、替え袖、重ねた裾。見えない場所で準備されていれば、人は消えたように見える。
「クレマンは、消えたのではありません。別の姿に替わった可能性があります」
ノア様が廊下の衛兵に指示を出した。
「控室を出た者を全員確認。身分に関係なく、袖口、襟元、靴底の白い糸を見ろ」
衛兵は一瞬ためらった。
「貴族の方々もですか」
「逃亡者が貴族なら、貴族を見る必要がある」
その言い方は明快だった。
私はリネットを呼んだ。
「白糸を探して」
「了解しました」
リネットの目には、人間のような視覚はない。けれど、縫い込まれた糸の振動を拾うことはできる。私は銀糸をリネットの手首へ結び、廊下へ出した。
王宮の廊下は混乱していた。
審問の傍聴者、記者、侍従、衛兵、神殿関係者。誰もが足止めされ、不満を口にしている。その中を、焦げ跡のある人形がゆっくり歩く。
「何をする、無礼な」
太った貴族が怒鳴った。
リネットは立ち止まり、平らな声で言った。
「逃亡者捜索中。ご協力ください」
「人形ごときが」
マルタ隊長なら何か言い返しただろう。
私は礼をした。
「ご協力いただけない場合、逃亡幇助の可能性として記録されます」
貴族は黙った。
書類に残ることを嫌がる人間は多い。
リネットが、廊下の端で止まった。
そこにいたのは、神殿の侍女だった。ミナ様に付き添っていた若い侍女とは別の、年配の女性。白い外套を着て、顔を深く伏せている。
リネットが彼女の裾を指した。
「白糸、反応あり」
侍女は顔を上げなかった。
ノア様が近づく。
「外套を取ってください」
「私は神殿の者です」
「だからこそ、取ってください」
侍女が動いた。
速かった。
外套の内側から細い刃が出る。ノア様へ向けられたその刃を、リネットが受け止めた。木の手に刃が食い込み、銀糸が弾ける。
私は赤い停止糸を引きそうになり、踏みとどまった。
止めれば刃が自由になる。
「保持!」
命令を足す。
リネットは刃を握ったまま動かない。
ノア様が侍女の手首を押さえ、衛兵が取り囲む。外套が剥がれた。
その下にいたのは、年配の侍女ではなかった。
礼典副長クレマンだった。
顔には薄い化粧、髪は白布で隠され、肩には体格を変えるための詰め物が入っている。外套の裾には白糸工房の命令糸が縫い込まれていた。
「クレマン卿」
ノア様の声は低い。
「ずいぶん器用な退席ですね」
クレマンは荒い息をしながら私を睨んだ。
「お前のせいだ」
「何がですか」
「人形が喋らなければ、すべて予定通りだった」
その言葉は、廊下にいた全員に聞こえた。
監査院の記録係が、震える手で書き留めている。
私はリネットの手を見た。刃で裂け、木の指が割れている。
怒りが、静かに胸の底へ落ちた。
「予定通りとは、私を断罪し、人形を燃やし、火事で証拠を消すことですか」
クレマンの顔が歪んだ。
「伯爵令嬢一人が黙っていれば済んだ話だ」
「ニナは火の中にいました」
「使用人の一人や二人」
言葉が終わる前に、ノア様がクレマンの腕を強く押さえた。
「それ以上は、審問室で言え」
声が冷たかった。
私はリネットの手から刃を外した。
木の指が一つ、床に落ちた。
リネットは痛みを感じない。けれど、その指はニナを抱え、坑道で水袋を運び、証拠を掴んだ指だった。
私は落ちた指を拾い、布に包んだ。
「リネット、任務は」
「逃亡者、確保。右手損傷。任務、継続可能」
「そう」
私は顔を上げた。
クレマンは衛兵に連行される。
その背中を見ながら、私は初めて、王都の陰謀が抽象的なものではなく、一人の人間の手で動いているのだと実感した。
白い糸を縫った者。
それを配った者。
命令を書いた者。
火をつけた者。
それぞれに手がある。
なら、手繰れる。




