第16話 偽物の人形
偽物のリネットが現れたのは、ミナ様の慰問から三日後だった。
場所は、グラン・エリオの市場。
昼の鐘が鳴る少し前、広場の中央で、青いドレスを着た人形が倒れた。見た目はリネットによく似ていたという。焦げ跡まで描かれていた。人形は倒れる直前、近くにいた菓子屋の子どもの腕をつかみ、強く引いた。
子どもは転び、肘を切った。
大きな怪我ではない。
けれど、十分だった。
市場にいた人々は悲鳴を上げ、誰かが叫んだ。
「救助人形が子どもを襲った!」
噂は、雪解け水より早く流れた。
私が市場に着いたときには、偽物の人形は警備隊に囲まれていた。青いドレス、黒髪、私に似せた顔。リネットの焦げ跡を真似た黒い塗料。遠目には、本物に見える。
けれど、近づけば違いは明らかだった。
縫い目が粗い。
関節の位置が浅い。
そして何より、目が違う。リネットの目は、私が母の古い硝子玉を磨いて入れたものだ。光を受けると、奥に薄い灰色が浮く。この偽物の目は、黒く塗った安物の石だった。
「コレット嬢」
警備隊長が硬い声で言った。
「確認をお願いします」
「本物ではありません」
「証明できますか」
「できます」
私は膝をつき、偽物の袖をめくった。
右手薬指の付け根。リネットには、私が登録印として入れた小さな縫い目がある。四九番を示す四つの点と九つの細い返し針。偽物には、それがない。
「登録縫いがありません。内部の命令糸も違います」
警備隊長はほっとしたような顔をした。
けれど、周囲の人々はまだざわめいている。
「でも、似ている」
「本物じゃなくても、人形は危ないんじゃ」
「子どもが怪我をしたんだぞ」
その声は理解できた。
事故は事実だ。怪我をした子どももいる。偽物だから関係ない、と言って済ませれば、私の人形への不安は消えない。
菓子屋の奥で、怪我をした子どもが母親に抱かれていた。肘に包帯を巻かれ、泣き疲れた顔をしている。
私はその子の前に膝をついた。
「怖かったですね」
子どもは母親の服を握った。
「にんぎょう、きらい」
「そうね。嫌いになっても仕方がないと思います」
母親が困った顔をした。
「お嬢様、すみません。この子、まだ混乱していて」
「いいえ。怖いものを怖いと言えるのは、大事です」
私は持っていた小さな布を出した。
赤い鳥の予備に作っていた、羽根だけの布片だ。
「これは動きません。お守りではありません。ただの布です。持っていたくなければ、捨ててください」
子どもは少し迷い、布片を受け取った。
その様子を、周囲の人々が見ていた。
ノア様が市場に到着したのは、そのすぐ後だった。
彼は偽物の人形を見て、顔をしかめた。
「よく似せていますね」
「外見だけです。中身は雑です」
「目的は、あなたの人形への信用を落とすことか」
「それと、私を怒らせることかもしれません」
「怒っていますか」
「はい」
私は偽物の胸を開いた。
内部には、白い布が詰められていた。例の白縛りの布に似ている。そこに粗い赤糸で命令が縫い込まれていた。
つかむ。
引く。
倒す。
ひどく単純な命令だ。
人を傷つけるための人形。
私のリネットを真似て作られた、それだけの道具。
指先が冷たくなる。
人形は、人間の代わりに危険へ入るためのものだ。少なくとも、私にとってはそうだ。けれど、同じ技術の欠片を使えば、人を傷つけることもできる。
前世の針だって同じだった。布を縫う針は、肌を刺すこともできる。道具の善悪は、使う手に宿る。
だからこそ、使う手を見せなければならない。
「ノア様」
「はい」
「公開で分解します。市場の人たちに、本物と偽物の違いを見せたい」
「危険は」
「偽物に罠があれば危険です。ですが、隠して持ち帰る方が噂が悪くなります」
ノア様は少し考えた。
「広場に作業台を」
警備隊長がすぐに動いた。
市場の中央に粗末な作業台が置かれ、偽物の人形が乗せられた。私は本物のリネットを隣に立たせた。
青い偽物と、灰色の作業服の本物。
人々は距離を取りながらも、見ようとしていた。
「これは、私の人形ではありません」
私は声を張った。
「ただ、それだけを言っても不安は消えないと思います。ですから、違いを見せます」
まず、登録縫い。
次に、緊急停止糸。
本物のリネットには、危険動作を止める赤糸がある。偽物にはない。
そして、命令の内容。
私は偽物の胸から白布を取り出した。
「この人形には、『つかむ、引く、倒す』という命令が入っています。救助に必要な『支える』『離す』『止まる』がありません」
周囲のざわめきが変わった。
マルタ隊長が人々に向けて言った。
「救助具は、止められないと現場に入れない。これは救助具じゃない。悪さをするための玩具だ」
その言い方は乱暴だが、分かりやすかった。
私は本物のリネットの袖を引いた。
「リネット。緊急停止」
赤糸を軽く引く。
リネットはその場で膝をつき、両手を開いた。
「停止。接触解除」
市場の人々が息を呑む。
「危険なときには、手を離す。これを最初から縫っています。もちろん完璧ではありません。だから試験を続けています」
私は偽物の白布を小瓶に入れた。
「子どもを怪我させた人形は、私のものではありません。ですが、人形への不安は私の仕事にも関わります。怪我をした子には、治療費と見舞いを出します。そのうえで、この偽物を作った者を調べます」
菓子屋の母親が、涙ぐんで頭を下げた。
私は胸が痛んだ。
本来、彼女が謝る必要はない。
偽物を作った者は、怪我をした子どもも、私も、リネットも、街の不安も、全部を道具にした。
その夜、試作室で偽物を詳しく調べた。
内部の白布には、白糸工房の小さな印があった。
そして、偽物の背中に縫い込まれていた紙片には、短い言葉が書かれていた。
『欠席令嬢の針は、人を救うだけではない』
私は紙片を燃やさず、証拠箱に入れた。
針は救うだけではない。
その通りだ。
だからこそ、私は救うために使うと決める。




