第12話 水袋を運ぶ人形
リネットが戻るまで、十分もかからなかったはずだ。
けれど、その十分は、王宮で受けた十年の教育より長く感じた。
銀糸は、私の指先で細かく震えている。リネットが石に触れないよう、肩をすぼめ、膝を折り、這うように進んでいるのが分かる。水袋の重みで右肩の動きが遅い。まだ修理が完全でない場所だ。
「右肩、もつか」
マルタ隊長が低く言った。
「もたせます」
「気合で糸は強くならないよ」
「分かっています」
私は唇を噛んだ。
なら、どうする。
肩を使わせすぎない。腕ではなく、背中の袋を滑らせる。人形の重心を下げ、肘を支点にする。前世の舞台衣装で、重いマントを踊り子の首に負担をかけず支えるために使った縫い方を思い出す。
私は銀糸に短い命令を足した。
背で運ぶ。
腕は支えるだけ。
リネットの動きが少し滑らかになった。
やがて、糸の先に温かい振動が触れた。
人の手。
リネットが誰かに触れた。
坑道の奥から、くぐもった声がした。言葉は聞こえない。けれど、泣き声に近い響きだった。
リネットの記録糸が拾った断片が、私の指へ流れ込む。
「……水……本当に……」
「……おい、動くな、子どもが先だ……」
「……外は……」
私は紙を用意した。
マルタ隊長が、鉱山用の短い合図文を書き込む。
『水は少しずつ。負傷者を動かさない。天井に手を触れるな。救助口を掘る。声を保て』
リネットが奥で紙を受け取る。
戻る命令を出す前に、糸が強く震えた。
何かがリネットに結びつけられた。
布。
いや、紙だ。
奥の人々からの返事。
「戻って」
リネットは戻り始めた。
途中、岩が小さく崩れる音がした。救助隊の全員が身を固くする。私は赤糸に指をかけた。
止まるか。
進むか。
糸鼠二号が返す空気の流れは、まだある。天井の揺れは小さい。止めると、リネットは狭い隙間の中で荷物になる。進ませる方がいい。
「進んで」
声が震えた。
リネットは進んだ。
焦げ跡の残る顔が、崩落の隙間から現れた瞬間、坑道にいた人々が一斉に息を吐いた。
リネットの胸には、汚れた紙片が縛りつけられていた。
私はそれをほどいた。坑道の煤と土で汚れ、文字は震えている。中に閉じ込められている誰かが、暗い中で膝の上に紙を置いて書いたのだろう。
『五人生存。負傷者二。うち一人は足を挟まれている。子どもが一人いる。灯りは残り少ない。空気はまだある。水ありがとう。外の音が聞こえる。待っている』
最後の一文で、救助隊の若い隊員が顔を覆った。
待っている。
その言葉は、命を預ける側の強さでもあり、こちらへの重い信頼でもあった。
ノア様は紙を読み、すぐに地図へ目を向けた。
「西側の古い排水孔から近づけるか」
鉱山技師がうなずいた。
「狭いですが、上から掘るより安全です。ただ、昔の図面が曖昧で、水脈に当たる可能性があります」
「糸鼠で先に見ます」
私は言った。
指先はもう痛い。銀糸を長く扱いすぎると、魔力が爪の下から抜けるような痛みが出る。けれど、まだ止められない。
ノア様が私の手を見た。
「交代できる作業は」
「糸鼠の布を替える作業なら、ニナに」
「ニナ」
呼ばれたニナは、背筋を伸ばした。
「はい」
「コレット嬢の指示で、糸鼠の外布を替えてください。マルタ隊長、彼女を作業台へ」
「了解」
ニナは一瞬不安そうに私を見た。
私はうなずいた。
「できるわ。火の中から戻ったあとの針目より、今朝のあなたの針目の方がずっと揃っていた」
「はい!」
ニナは泣きそうな顔で笑った。
作業が動き出す。
救助隊は西側排水孔を開け、鉱夫たちは支柱を運び、ノア様は全体の進行を見ていた。私は糸鼠を排水孔へ入れ、地図にない空洞を探す。
王宮の夜会では、私は一人で立っていた。
ここでは違う。
私の糸は、ニナの針目、マルタ隊長の判断、鉱夫たちの腕、ノア様の指示につながっている。
それでも、失敗すれば人が死ぬ。
重さは消えない。ただ、重さを一人で持たなくていい。
夜が深くなったころ、排水孔の奥で、糸鼠が空気の変化を拾った。
塞がれた空間に近い。
私は地図に印をつけた。
「ここです。ここを抜けば、奥の空間の横へ出ます」
鉱山技師が確認し、マルタ隊長が支柱の位置を決めた。
ノア様が現場に向かって声を張った。
「掘削開始。急ぐな。生きている人を助けるために、こちらが死ぬな」
その声に、救助隊が動く。
リネットは私の横に立っていた。
焦げた顔で、崩落の奥を見ている。
「任務、継続中」
「そうね」
私は指先の痛みを握り込んだ。
「まだ終わっていない」




