第4話
もうこんな時間か——。
海斗は時計に一瞥をくれ、あくびをしながら背筋を伸ばした。
午後1時24分——。
寝過ぎてしまった。
恐らく今夜は眠れず、明日の仕事にも影響しそうだ、と落胆した。
海斗はせっかくの休日だというのに、自宅でだらだらと怠慢に過ごす日常も嫌いではない。
人生を無駄にしている——とあまりにも大袈裟すぎる指摘を友人から受けるものの、どう説得されようと改める気はない。
昨夜、職場の防水工の親方に連れられて行った、西中島にある焼肉店。そこで肉をたらふく堪能し、その勢いのまま二軒目のキャバクラへ。結果、羽目を外しすぎたツケがきっちり翌日に回ってきている。
昼過ぎまで爆睡してしまい、さらにアルコールの影響もあって身体が重い。二日酔い気味だ。
海斗はゆっくりと身を起こしベッドに腰掛けた。
テレビゲームでもして一日を潰してやろうか——。
そんなことを考えた途端、ブルブルとスマホが振動を始めた。
『朝井純矢くん』とのディスプレイの表示。
海斗の身体は一瞬、ブルっと身震いするように戦慄を覚えたが、ひとつ深呼吸を挟み着信に応じた。
「もしもし」微かに声が震えた。
『おう、海斗。今何しとんねん?』
純矢の研ぎ澄まされた声が耳を貫いた。
「ちょうど寝起きで•••ウトウトしてたっす」
『なんや、グダグダやっとんなー』
不敵な笑みを浮かべる純矢の顔が脳裏に浮かぶ。
『ほんならやー、遅めの昼メシでも食いに行こかいな』
「今からっすか?」
『今からちゃうかったらいつ行くねんな。そのついでによー、海斗に頼みたい用事あるからよ』
「あ、はい。用事ってのは••••••?」
げんなりと肩を落とす海斗。心の中で小さく舌打ちする。
『詳しいことはよー、腹ごしらえしながらでもゆっくり説明したるからよ。カドヤ集合なー』
と一方的に言い切ると、有無も言わさず通話を終わらせた。
純矢に対する拒絶が、知らず知らず言葉の端々に滲んでいたのではないか——そう危惧しながらも、やはり誘いを断ることなど過去を振り返っても難儀で、了承するほかなかった。
不安の吐息を漏らしながらも、海斗はモコモコとした光沢を放つダウンジャケットに身を包み、ほどなくして家をあとにした。愛車のプリウスのハンドルを握り、十三の自宅を出て阪神高速へ——加島から乗った。
車内ではアップテンポのBGMが鳴り響く。海斗の神経を逆撫でするかのようで、直ちにボリュームを絞り無音を求めた。
そして森小路で阪神高速を降りる。十分ほど走らせると太子橋今市太子橋今市——お決まりの定食屋『カドヤ飯店』の看板を目で捉えた。
店内で待つこと数分、純矢は姿を見せた。人工的に焼いた浅黒い肌に、冷えきった目。アンダーアーマーのセットアップを纏い、いかにも近寄り難いオーラを放っている。
おつかれさまです、との海斗の声に、軽く顎を引いて対面に腰を下ろす純矢は、当然のように唐揚げ定食を二つ頼んだ。
「純矢くん、電話で言ってた用事ってなんすか••••••?」開口一番に切り出した。
「おうおう、それな」
海斗に向けて指を差し向け、得意げに口元を歪める純矢。
と、その時、唐揚げ定食がテーブルに運ばれてきた。会話は中断される。
注文から提供までスピーディーなとこがこの店のいいとこだ。
早速、箸をつけながら純矢が口を開く。
「明日、予定空けといてくれ」
「••••••仕事、あるんすよ」
「小一時間でええからやー。どうや? 時間は海斗に任せるしよー」
「でしたら••••••仕事終わりでよければ、なんとかなりそうっす」
「よっしゃ。何時頃なんねん?」
仕事を理由に逃げられる——そんな甘い見込みは、ことごとく霧散した。
「夜の七時くらいになってしまうんすよ•••」
「ほな、それでええからやー」
純矢は、ポケットの中をまさぐり、あるモノを取り出した。
それを掲げながら、こう言った。
「引き出してきてくれ——。これ預けるからよー」
「なんすか、これ?」
「キャッシュカード。俺のツレの」
海斗はきょとんとした。
ヒラヒラとキャッシュカードを扇ぐ純矢。
「ここに百八十五万円、入金予定なっとるからやー。そこらのATMでええから走ってくれー」
「あ、はい。それぐらいのことやったら任してください」
お安い御用だ、と海斗は快諾した。
こんなもので済むなら楽なものだ。長時間拘束されることもなく、片手間に片付く用事だ、と。
「すまんなー。俺は、ちょとなー、客の相手せなあかんから都合悪いねん」
どこか気が引けたように眉を下げる純矢。
「俺が自分で走ればやー、海斗にも苦労かけんと済むんやけどよー。なんせ一日中、手ぇ離されへんのやー。すまんけど頼んだぞー」
純矢はキャッシュカードを海斗の手に握らせた。
海斗は指をほどいて、それに目を落とす。
『ミタニハルヒコ』
見覚えのない名前が、そこに刻まれていた。
◇◇◇
翌日、海斗は仕事終わりにプリウスを走らせ、純矢の所用に骨を折った。
十三駅のATMで、指示通り百八十五万円を引き出す。
ついでに駅近くの有名な和菓子屋に立ち寄り、みたらし団子を買った。
そして純矢の住まいである守口市のマンション前にプリウスを横付けし、インターホンを鳴らす。
待つことなくドアが開いた。
海斗は現金とキャッシュカードを純矢に渡した。
「ご苦労やったー。微々たるもんやけどやー、これ、手間賃や思て、遠慮なくもろといてくれー」
差し出されたそれを受け取った瞬間、海斗の手は、わずかに震えた。
一万円札が十枚もあった——。
——知らなかった。
——騙された。
「せやけど海斗くん、それは通らんで」
殺風景な取調室に、青山刑事の低い声が沈んだ。
「ちょい厳しいんとちゃうか。おまえさんの言い分はな」
立花の部下である青山は、眉をしかめて逃げ場を塞ぐように言った。
はぁ、と意気消沈する海斗は、思考をフル稼働させて、事件の全貌を説き明かした末のことだ。
「そんなもんな、口座から現金引き出しただけで十万円も報酬もらえるて、犯罪の匂いぷんぷんするわな。おかしい思わんかったか?」
「まぁ••••••」
海斗は否定できなかった。どくりと鼓動が不規則に鳴ったことは事実だった。
「冷静に判断したらわかることや。それに、異変に気づいた段階で警察に相談することもできたはず」
——認められるかもしれない。事件の経緯を話せば、ひょっとすると罪に問われないのかもしれない。
そんな安易な考えは朝霧のように霧散した。
打開策はない。
両手を挙げるしかなかった。
「確かに••••••」
肩を落としてうなだれる海斗。
「僕も、悪いんっすね••••••」
「なんでもかんでも請け負うたら痛い目見るんや。いくら仲の良いやつでもな。特に海斗くんは言い寄られたら断られへんタイプやろ」
緩やかなパーマのかかる髪を指先で弄でぶ青山は、知的そうでスマートな容姿で、海斗の世話を焼いてくれている。
純矢は変わった——。
昔の純矢とは違う——。
今ではすっかり丸くなった——。
——そう思い込んでいた。
——誤った解釈をしてしまっていた。
ここ数年、よくご飯にも連れて行ってくれ、面倒を見てくれていた。そう思う反面、心の奥底に黒い影が差していた。純矢を激怒させぬよう、波風を立てぬよう、顔色を窺っている自分がいた••••••。
「そう言えばな、『海斗くんは元気かあ?』て、ウチの班長が気にかけとったぞ」
「班長?」
「立花刑事や。海斗くんのこと、気に入っとるみたいやで」
えっ、と海斗は目を丸くした。
「なんで、僕なんすか••••••?」
「班長の言わんとすることはわからんでもない。海斗くんの、真面目で裏表ないところ、高く買ってんやろ」
青山は一瞬、視線を宙にやり、胸を躍らせるような目をした。
「班長はな、仕事は厳しいんやけども、人情味あるええお人なんや。俺ら部下は皆、慕っとる」
海斗は相槌も打てずに聞き入ってしまう。
「そろそろ終わろか。」
青山は言った。「そういや来月、誕生日やな。何歳なる?」
「二十七歳っす」
「そうか。檻の中で迎える誕生日は、まぁ辛いもんあるわな」
軽く頷く青山。
「せやけど、これも海斗くんの人生において、戒めにもなる。心配せんでもまだまだ取り返しつくぞ」
「もしここにおったら、おめでとう、の一言ぐらいは言うたる」
◇◇◇
海斗は一旦、留置場へと戻され昼食を摂った。
そして再び取調室へと連行されるも、待てど暮らせど青山は一向に姿を見せない。
途方に暮れているところに、ようやくドアノブが回った。
ゆっくりと扉が開く。
そこには、予期せぬ人物が壁のように仁王立ちしていたのだ——。




