第3話
——腰痛や肩こり、むくみの解消まで一日の疲れを座るだけでリセット。あなたのリビングを癒しの空間へと変える、本格マッサージチェア。
午前の終盤に流れ出す通販番組に目を奪われた一瀬都子は、営業マンの宣伝を反芻した。
身体や精神において、圧倒的に負担のかかる仕事——それが都子の日常だ。
さらに五十代という年齢が大いに拍車をかけている。これこそ、自分にとって必要不可欠ではないのか。
マッサージチェアを買うか否か——思い悩んでいたその時、リビングのドアが勢いよく開いた。バタバタと騒がしい足音が現実へと引き戻す。
「またそんな真剣な顔して通販なんか観てんのー? 買お、とか言い出したりするんちゃん?」
一瀬夢乃は小柄な身をソファーに預け、あどけない小顔を歪めて都子を問い詰めた。
「ちょっと夢乃も観てみなさいよ。腰痛や肩こりがリセットされるマッサージチェアやて言うてはるんやで? 私にとってうってつけのアイテムやないの。よかったら、夢乃も使ったらいいさかい」
「いらんいらん——」
夢乃は首を横に振って呆れ顔をつくる。
「夢乃まだまだ若いんやでー。健康がどうとか気にする必要ないんやし。どうせお母さんさー、買うだけ買って結局使わんと、押し入れ行きやろー?」
母親とは似つかぬクリっとした大きな目でじろりと都子を睨みつけて、ガラステーブルのガーナチョコレートを一粒、口に運んだ。
午前の優雅なひとときだというのに、くだらないテレビ番組しかなく、都子は必ずと言っていいほど通販番組に落ち着く節があるのだ。
「いぃや。買うたんならちゃんと使わしてもらうに決まってるやないの」
口を尖らす都子。
「お母さん、それ、よー言うた」
はぁ、と大きな溜息を吐く夢乃は、薄茶のセミロングの髪を梳かしながら蔑んだ目を向けた。
「口車に乗せられてカメラかなんか買ったんはいいけど、全く使いもしんかったはどこのどなたですかー?」
「ちゃうやんか。心揺さぶられて買うてしもたんは確かやけど、全く使ってへんわけやないんよ。それにな、その言い方やと私が騙されて買うたみたいになってまうやないの。悪徳商法やないんやで」
「はいはい——もういいよ、お母さん」
夢乃は茶化すように言う。
「どうせ買ったところで無駄遣いに終わるんやし。夢乃の言ったことが正しかったー、てなんねんから。まー業者さんの作戦勝ちってとこかー。いいお客さんやん」
以前、一眼レフカメラを通販で購入した。
数回のみ使用したが、そのあとは押し入れに眠り込んでしまっている。夢乃の指摘通り、認めざるを得ないのも、どうにも悔しい。
くっきりと映し出されている通販業者の電話番号が〝早くかけろ〟と催促しているかのような圧をテレビ画面越しに感じた。
——と、その時、けたたましく音を響かせたのは自宅の電話だった。
未登録の番号——固定電話。
下四桁は〝一ニ三四〟だ。
都子はその番号の羅列に、嫌な予感を覚えた。
『もしもしい』
受話器を取るや、どこか刺々しい声が飛び込んできた。咄嗟に声の主を模索してみたがヒットする者はいない。
「はい」声を潜める都子。
『南警察署の立花いう者なんやけどもお、海斗くんの親御さんですやろかあ?』
暗雲が立ちこめていく。嫌な予感はさらに増幅した。
「え、えぇ••••••そうですけど••••••。息子に、何かありましたんやろか?」
都子の緊迫した声遣いから異変を嗅ぎ取った夢乃は、顔色を変える。
——どうしたん?
不安げに口の動きだけで訴えてくる。
『突然の電話、申し訳ない。ある事件の関係でねえ、南警察署で海斗くんを逮捕したんですわあ。で、こっちで彼の身柄、預かってますねん』
——逮捕。
その言葉だけが、やけに鮮明に耳に残った。
言葉が思うように出てこない。
理解が追いつかない。
都子は糸が切れたように、無気力にうなだれた。
『残念ながらね、現段階では詳細は言えませんねやあ。捜査中でしてねえ』
「はあ••••••そう、ですか••••••」
『息子さんがね、急に音沙汰なくなってしもたら、お母さん、びっくりしますやろお。せやから海斗くんの希望もあって、こないして連絡さしてもろたんですわあ』
立花の声が針のようにチクチクと胸を刺し、じわじわと抉られていく。ようやく絞り出した都子の声は頼りなく震えていた。
「お手数かけまして申し訳ないです。その、いけるようであれば、息子の顔、見に行きたい思うてまして、面会のほうはどうなんでしょうか?」
『面会はねえ、事件の関係で接見禁止が付いてますさかい、基本的には無理なんやけどもお』
わざとらしい間があく。
『もしかしたら、親族のみ許可なっとる可能性もあるさかい、一遍行ってみたらどないですかあ』
「わかりました••••••。ご迷惑おかけしました」
はぁと深い溜息を吐きながら、そっと受話器を置いた。
暗澹たる表情を浮かべる夢乃を直視することができない。和気あいあいとした場は一瞬にして凍りついていた。
悪い予感は的中した。
頬を伝って、ゆっくりと流れ落ちていく雫に気づく。
意識すればするほどに頬を伝う頻度が増し、声を押し殺すこともできず、嗚咽が漏れた。
「お母さん、大丈夫?」
夢乃の気遣う声に、はっと我に返った。
◇◇◇
「お母さん、そんな状態でなー、ほんまにお店出て大丈夫なん?」
遅めの昼食を済ませ、食器を洗いながら夢乃が不安げに問いかけてくる。
「大丈夫よ」頬の筋肉を弛緩する都子。
「大丈夫すぎて、怖いくらいに」
必死に笑みをつくった。
「ほんまにー? お昼ご飯も全然食べやんやん。今日、結衣さんお店出てくんねやろー?」
「出はるよ。なんでやの?」
「んじゃあ、お母さん今日一日ゆっくり休んどきー。出勤日ちゃうけど、夢乃が代役で入るし。結衣さんおったらお店は難なく回るやん」
「いいの、いいの」
かぶせるように言う都子。
「私のことは心配せんでいいんよ」
仄かに心が温まり、自然と都子の頬は弛む。
「それに、夕方から朱里ちゃんと、お買い物行くて言うてはったやないの」
「それはいいよ。別にいつでも行けるし。朱里には急遽、仕事行かなあかんことなったー、言うて後日にしてもらうしー」
「朱里ちゃん楽しみにしてはるのに、ドタキャンなんかしたら悪いやないの。夢乃の気持ちは充分に受け取らしてもらったさかい、自分のやりたいことやりなさい」
都子は玄関で靴を履いて姿見を覗くと、案の定、落ち窪んだ目をした生気のない顔が映っていた。
さらに茶色のロングヘアの生え際には黒が目立ち始めていた。週末には美容院に行くべきだ——と、また面倒な用事を一つ抱えてしまった。
「お母さーん、おにいの面会いつ行くん?」
夢乃のよく通る声がリビングから響く。
「明日にしようかと思てるんよ」
都子は、ほな行ってきます、と言い添えてドアを開けた。
歩を踏み出す度に黒のロングスカートがふわりと波打ち、長い髪を靡かせる都子は、住宅街を抜けて大通りへ。歩いて十分ちょっとの道のりは今日に限って途轍もなく難敵だ。
結局、タクシーに揺られることになった。
飲食店が立ち並ぶ豊中駅の一角。
控えめでレトロな佇まいをした建物の一階、曇りガラスのドアを引いた。
『都愛』——昭和の面影を残す店前の小さな看板は、夜になるとネオンが灯る。
七坪ほどの店内はボックス席が一卓、カウンターが七席。大して広々とした空間ではないにしても、それなりに客入りはまずまずだ。
仕込みに取りかかるや否や、ドアが開き、「おはようございます!」と甲高い溌剌とした結衣の声が店内に響いた。
ほどよくふくよかなシルエットの結衣は、笑うと愛嬌のある人懐っこい笑顔を武器に、『都愛』の看板娘を務めている。また堅実な一面も持ち合わせており、お店を任せても不安のない人材だ。
「おはよう」と短く返す都子。
「ママ、ちょっと聞いてくださいよ。京橋のアイス屋知ってますかっ? SNSでめっちゃバズってて」
仕込みに手を動かしながら、結衣はエネルギッシュに問うた。
「 もちろん。話題になってはるさかい」
「あたし、ついに行ってきましたー。めっちゃおいしかったんで、二つ頼んじゃいましたよー。あー太る太る」
天真爛漫な結衣の表情は、そっと心の奥を照らしてくれる。
「そう、そらよかったやないの。最近、夢乃も行きはったみたいで、えらい絶賛してたんよ」
「——んっ、ママ」
結衣が顔を覗き込んできた。
「だいぶん顔色悪いですよ。もしかして体調悪いとか?」
先ほどまでの明るさは引き、結衣の表情は不安げに揺れる。
「ううん、大丈夫••••••大丈夫よ。心配しなさんな」
都子はぎこちなく笑みをつくり、どうにか取り繕う。
「マジっすか。もし、急遽具合でも悪なったら休憩しといてください。あたしが二人分働きますから。余裕のよっちゃんなんでー」
結衣は、にかっと笑い親指を立てた。
◇◇◇
翌日、都子は朝早くから車を走らせ、ミナミへとやってきた。
昨夜はやはりラストまで体調が優れず、どうしたもんかと嘆いたが、不幸中の幸いにも客入りはまばらで、なんとかその場を乗り切ることができた。
久方ぶりのミナミはより一層ガヤガヤとして映った。街全体を覆うように淀んだ雲が低く垂れ込め、それに呼応するように胸のざわめきが加速する。
南警察署の門を潜り、受付けで名を告げる。都子は淡々と面会の手続きを済ませた。
待ち時間もほぼほぼなく、すぐに面会室へと通された。
外界との境界線を示すように透明なアクリル板が無機質に据え付けられている。
都子は先着していた。
そして思考を巡らせる。成人を越した我が子にどのような言葉をかけてやるべきか。
叱りつけるべきなのか——。
それとも、慰めてやるべきなのか——。
と、思い悩んでいたその矢先。
ドアが開き職員に連れられてきた海斗の顔は、ひどくやつれていた。元々、細身の容姿ではあるが、頬はこけ、さらに削ぎ落とされたように痩せ細り、覇気はまるで感じられない。
海斗の一声で口火が切られた。
「お母さん••••••ごめん••••••」
涙する寸前の顔で、首を折り曲げて許しを請う。
「いい加減にしなさいよ! ほんまに、もう」
はぁ、と溜息を吐く都子は、顔を歪めて言い放つ。
「もう、いっぱしの大人なんやさかい、もっと自覚持って行動せなあかんやないの! 学生やないねんで。安易に考えてるから取り返しのつかんことなるんよ!」
「それから、防水工の仕事はどないしたん? 捕まってしもたから仕方ないて、まさかやりっぱなしにしてきたんとちゃうやろな?」
「••••••弁護士に伝言頼んだ。もう、仕事場には戻られへん••••••クビやわ」
「自分の蒔いた種やないの。どんな結果やとしても受け入れなさい」
茶髪のシンサイ刈りは寝癖であちこち跳ね上がり、くたびれた印象を一層際立たせていた。また母親譲りの細い目の下には、濃い隈が落ちている。
これな、と都子は紙袋を海斗の見えるように掲げた。
「そっちで必要な衣服。万が一、刑務所に行かなあかんようなってしもたら絶対にいるんやから」
「刑務所••••••」
そのワードに過剰に反応を示す海斗は声が掠れた。
「行かなあかんの••••••?」
「わからんやないの、なきにしもあらずやろ。そやけどな、もうこんなこと——今回で最後にしなさいよ。二度はないんやから。自分の胸に手あてて、反省しときなさい」
海斗は小さく頷いた。
はぁ、と大きな溜息を吐いた都子は、数秒間の沈黙を破るように心の声が漏れてしまう。
「ほんまに••••••お父さんにそっくりなんやから••••••」
「えっ?」海斗は目を剥いた。
「••••••ここまで、遺伝してくるもんなんやろか••••••」
「なに? 遺伝って、どういうこと?」
「もう、そんなこと気にしてる場合やったら、出所後のことでも真剣に考えときなさい」
面会終了を告げられて都子が立ち去ろうとしても、海斗は怪訝な表情を崩さずに、目で訴えかけていた——。




