第2話
ぎゅうぎゅうのすし詰め状態にピタリと身体が密着し、全くと言っていいほどに身動き一つ取ることができない。揺れ動く反動に屈しないよう、ガッと足を踏み込んで、ギュッと吊り革を握りしめた腕からは、血管がミミズのように浮き出ている。
もし、この場で誰か一人でも転ぶようものならば、ドミノ倒しの如くバタバタと車内に連鎖していくであろう。
額からは汗が滲み出て、否応なく〝夏〟の気配を先取りしていた。
ただ通勤するだけだというのに、疲労感まで伴う日々に、杉谷剣士は心底嫌気が差していた。
いっそ会社近辺に住まいを移そうか——そう考えずにはいられない。
とはいえ、剣士の職場は異動や転勤が一際多く、それが彼を悩ます最大の種なのだ。引っ越したはいいが、すぐに転勤となればたまったものじゃない。そうこうするうちに三度も年を越したが、決断できないでいる。
ふと剣士は、くるりと首だけを捻り車窓を覗き込んだ。
ホームに『堺筋本町駅』と記されたネームプレートを捉えるも、後方へと流れ去っていった。
ようやく次は長堀橋駅か、と剣士は目的地が迫りくることに安堵の息を吐いた。
長堀橋駅は大阪を代表する繁華街『ミナミ』と呼ばれる一帯にある駅の一つ。オフィスや飲食店が軒を連ね、海外からの観光客の姿も頻繁に散見される。
剣士は飲食店が豊富なことから、配属先がミナミと決まった時、よしっとガッツポーズを決め込んだほど。だが今となってはこの付近一帯の店も行き尽くし、むしろガヤガヤした人混みからは距離を置きたいとさえ思うようになった。
地下鉄が徐行しながら目当てのホームへと滑り込んだ。
ドアが開く瞬間に、やっと自由になれる、と歓喜し、地下鉄堺筋線を降車した。
そこから会社までの道のりはというと徒歩で五分ほど。一段飛ばしで階段を上り地上へと顔を出す。雲一つない空の下、ハンカチで汗を拭いながら人々を追い越すように突き進み、会社の門を潜った。
午前八時頃からの朝礼で、本日予定されている業務内容や、伝達事項などの訓示が十分程度。
その後、仕事前の一服を嗜むために裏口を出てすぐの喫煙所に足を向ける。今のご時世、至るところに備え付けられていた喫煙ルームが撤去され、肩身の狭い思いをしている。
ここまで喫煙者を除け者にする社会にも、どこか腑に落ちない。
剣士は時代の流れに寄り添って、一度タバコを断ったことを思い出す。
だが結果は三日——あまりにも短い期間で、あっけなく惨敗を喫した。
紫煙を燻らせていると「杉谷」と名を呼ぶ声がして、そちらに顔を向けた。
上司の片山だ。剣士は軽く会釈した。
「黒岩のな、尿検査の鑑定書あがったぞ」
片山は言いながら、シャツの胸ポケットに忍ばせていたタバコを手に取り吸いつけた。
「結果はどうでした?」
「きっちり陽性反応やった。さすが科捜研、ええ仕事しよるわ」
吐き出した煙で輪っかをつくる片山は浅黒い顔を綻ばせた。
「ほんまですか。一週間以上も前にシャブ打ち込んだ言うてましたけどね」
「まぁでも、それもどうかわからんで」
眉間に皺を寄せる片山。
「なんしか、黒岩のガラ出した時によ、鑑定書を本人に確認させといてくれ」
「了解です」タバコを灰皿に揉み消した。
「そういやな——立花班長のとこ、朝早ようからガサ行っとるみたいやで。もうじき、ガラ引っ張ってくる頃ちゃうか」
「あぁ、例の件ですか」
「そうや、特殊詐欺の件や」
◇◇◇
剣士は午前九時を回った頃に留置場を訪ねた。
刑事課の部屋を抜け取調室へと黒岩を連行する。そして机を挟んで相対し、雑談混じりに切り込んでいく。
「どう? 留置場の生活は」
「管理の担当さんにもよう面倒見てもろうてね。おかげさんで快適に過ごしてますわ」
坊主頭に切れ上がった目つきの黒岩は五十代後半だ。
パソコンのキーボードを叩きながら剣士は言う。
「それはよかった。ただ、中の担当には迷惑かけんようにな。一つ頼んどくわ」
「わかってまんがな。刑事さんの顔に泥塗るような真似、するわけありまへんやろ、心配しなはんな」
剣士は二十代半ばの若手の刑事。
取調べにおいて最も重要なのは、被疑者との信頼関係——それが上司の口癖だった。
無論、主導権はこちらが握る。
だが一方で相手の話に耳を貸したり、時には寄り添うフリをして距離を詰め、事件の実体と、その周辺に広がる闇を暴いていく。
「黒岩さん、シャブの卸元は?」
「すまんけど刑事さん、それ喋ったら命失くなりまんねん。立場いうもんがあるんでね」
「ほな、余所はどうや? 派手に売り捌いてるヤツらは?」
黒岩の目を覗き込む。
「調書にしやん。あくまでも雑談や」
「••••••森澤組と、ちゃいまっか」
唇を噛み、渋面をつくる黒岩。
「シャブ屋の森澤かぁ」
短く呟いた。
「中でも羽振りええのはどいつや?」
「はあ••••••神原、とかね•••」
「あの威勢のええ若手か」
「へぃ••••••。もう、ここらで堪忍してぇな」
「まぁ、この辺にしといたる。卸元のほうは、こっちで上手いこと調書にまとめとく」
「何から何まで助かりますわ」
それから、と剣士はファイルを漁漁りながら言う。
「尿検査の鑑定書届いとったから確認してもらえるか」
「ほうほう」
紙を捲る音だけが続く。
だが——鑑定書が見当たらない。
「••••••あれ」
剣士は訝しげに眉を寄せた。
「黒岩さん、ちょっと待っといて」と言い残し、席を立った。
剣士は取調室を出て自席に腰を下ろし、机の抽き出しに手をかけた——その時だ。
刑事部屋の入口付近が突然ざわめき始めた。
何だ、と思い剣士はそちらに目をやると、活気に満ちた立花班長の顔がひょいと覗き、颯爽と姿を見せた。
ガサの帰りだろう——剣士とは無関係の仕事だが、なんの気なし目をやった。
ぞろぞろと帰路に就く刑事らは、やり遂げたと言わんばかりの誇らしげな顔が、いくつも並んでいる。
その刑事らに囲まれるようにして、手錠を嵌められた青年——ドクロマークの赤いパーカー。
えッッ——?
剣士は息を呑み、目を剥剥いた。
青年の顔を凝視する。
脳内に稲妻が走った。
心臓がドクドクとアクセルを踏んで加速し始める。
脳の神経を働かせて記憶を遡ると、そこに映し出された人物と、連行されてきた青年がぴたりと一致してしまう。
剣士は全身が脱力していくのを覚え、天を仰いだ。
そう、あの青年を知っている——。




