第16話「星満つる蒼夜」
ローレは、目の前で息をして、二足で立っているシリエの姿を数秒間受け入れる事ができなかった。
重要な臓器の詰まった腹を貫かれた挙げ句、無防備な状態で骸の渦へ頭から落下したのだから、信じられないのは当然だろう。
しかし──
「……まあ、そうなりますよね…………私自身も生きている事に驚いていますし! はは……」
凛としたよく通る声、ふわりとした仕草、ピコピコと動く耳、深い蒼の瞳。豪雨に打たれてずぶ濡れになろうとも、目の前にいるのは、どうしようもなくシリエ=エレイソンだった。
「──下腹部の傷」
ローレはそんな彼女の姿を見つめ、そして気づく。負ったはずの傷が塞がっているではないか、と。
ローレの言葉にシリエは敗れた修道服の下、下腹部を手で撫でてこう言った。
「私は、救われたのですよ」
「すく……われた、ですか?」
「ええ」
そう言うと、シリエはニマリと口角を上げ、ローレを心配させないようにと努めながら、《《背中に回していた両手》》を頭の上に勢いよく掲げた。
「──この子にですっ!」
「ぎゃーーーー! ヌシを雑に扱うんじゃないめッ! い、いたいっ、痛いめーーーー!!!!」
シリエが満面の笑みで掲げてみせたのは黒く、丸い体に小さな羽根が二つ、そして頭にツノが一つ生えた────ネルとローレが『めーちゃん』と呼ぶ、魔物だった。
「……………………めー……ちゃん? 何故……?」
「よしよしっ! 良くぞ私を救ってくれましたね! キミは命の恩人なのですっ! よしよしよしー」
「くす、くすぐっあい……あっ、説明! ローレが困惑ッひひっ……あひひっ……くぅっ……」
「──あ、そうですね! 説明は大事です!」
パッ、とめーちゃんをもにゅもにゅしていた両手を離し、呆然とするローレの方へ歩みを寄せる。その足が一歩を踏み出す度に、雨は容赦なく体に付着した血を洗い流していった。
そして、シリエはローレのすぐ近くまで歩み寄り──抱き着いた。
シリエの小さな体がローレの胸に埋まり、冷え切った体に温度が移る。ローレはひどく驚き、反射的に避けようとしたが、実際、シリエを避ける体力さえ身体には残っていなかったのだ。
雨音が耳を叩き、身を寄せ合う二人の音以外が聞こえなくなる。そして、胸元に顔をうずめたシリエの口から、普段の彼女からは考えられないような、弱々しい声がローレの耳に入った。
「少し、ほんの少しの間だけでもいいので。このような行動を取ることをお許し下さい、我が主よ」
「…………後で、説明してくれるのですよね? ……私の聖女様」
そのローレの言葉にシリエはピクリと体を跳ねさせ、そしてコクコクと顔を見せずに頷いた。
そんな彼女の様子は、序列一位とは思えない、雨に濡れた一人の少女のようで、ローレはそんなシリエに何とも言えない感情を覚えると同時に、多大な負担をかけさせてしまった己の不甲斐なさに、全身の血が沸騰しそうだった。
──力が。
──力があれば。
シリエに悟られないように、左手の拳がぎりり、と音を鳴らす。
──そうだ。
もっと力があれば。
全てを救える力さえあれば。
大切な人を喪う事もない。
大切な人を心配させる事もない。
大切な人が傷つくこともない。
力が。
力があれば──
「我が主よ。……顔が少し怖くなっていますよ?」
「──っ」
脳を埋め尽くす声を遮るように、シリエの細い手が頬へと当てられた。
「責任感を負いすぎるのは、我が主の良くないところです。──この責任は、闘った者全てが背負うのですから、貴方様一人で全部背負おうとしないで下さい」
そう言ったシリエの表情は、慈悲深く、爛れた心を包み込むような温かさがあった。
──しかし、未だに脳を巣食う呪詛の嵐がそれを阻み、相反する。
自分が自分でなくなるような感覚に、頭がおかしくなりそうだった。
ローレは堪らず地面に尻をつく。
ぴしゃりと、地面に波紋を作った。
「っ──我が主よ! 気を確かに!」
「ローレ!!」
目が虚ろとしているローレの様相を前に、魔力が残り僅かなシリエは狼狽える。めーちゃんも同様で、顔をひどく歪めてローレを見つめていた。
そんな時に、ビシャビシャと多数の足音が後方から聞こえてきた。戦場を生き抜いた冒険者や、聖王国兵達──そして、フルーヴに肩を貸してもらって歩く、紅髪の少女。
「ネ……ル……」
「めーちゃん!? それに……ローレさんっ!?」
ネルは地面に座り込んで意識を朦朧としたローレの姿を目にし、フルーヴに感謝を伝えて力一杯走った。
ざあざあと雨が戦慄く。
ネルが泥水と血で服が汚れることも構わずにローレの手をとる。シリエの視線を受け、ネルは瞳を閉じて精神を研ぎ澄ませる。
アレを。
土壇場で骸の防壁へと放ったアレを。
全身全霊で再現する、それがネルに課された役割。
ネルは両手で握った杖をローレの頭へ優しく当て、ポツポツと呟くように詠唱した。
(──これはお兄ちゃんと一緒に創った魔法だから。お兄ちゃん。今だけは、私に力を貸して下さい)
紅の髪が持ち上がり、純白の杖が柔らかな緑の光を纏う。
「再起の極光」
「っ……ぅ……くッ……」
温かさが、温もりが、頭の奥深くへ浸透していく。
それにはネルの純粋な祈りが乗っていて、ふつふつと泡を噴いていた憤怒はいつの間にか、いっそ不気味なほどにその姿を隠した。
揺れる視界がカチリとピントが合わさって、ようやく目の前に広がる景色が目に入った。
「終わったの、ですね」
「はいっ……ローレさん。終わったんです……! 勝ったんですよ、私達は!」
「おっと……」
とさっとネルの華奢な体躯がローレの身体に飛び込んできて、ローレは痺れの残る両腕でそれを受け止めて息を吐く。
「────綺麗、じゃないですか」
ローレの口から、そう言の葉が零れ落ちた。
大雨を吐く壮大な夜空。
血を被ったような赫色は何処にも見当たらず、星々や月が煌めく蒼夜へと姿を変えていた。
豪雨なのに星々が明瞭に見えるという矛盾。
雨は酷く透明で、未だ熱の収まらぬ戦場を、悔しさに叫ぶ魂を、静かに鎮魂するかの如く振り注いでいたのだ。
「──エルシオン=ロスカよ。どうか、我らに休息を与え給え」
シリエもまた、錫杖を額に近づけ、ローレの言葉に同意するように蒼夜を見上げた。
先程までの狂気が嘘のような、透き通った星空。
失ったモノは戻らない。
だが、失うはずだった可能性を救うことができたのもまた事実だ。
「──おらよッ、湿気た顔してんじゃねェよ師匠サマよッ!」
豪雨の中、背後から声をかけてきたのは、『雷霆』のゴールアーランだった。
彼の分厚い巨盾は中心から端にかけて大きなヒビが入り、鋼鉄の鎧もボロボロだったが、その顔には生き延びた者特有の泥臭い笑みが浮かんでいた。
彼は空気を読むように、言葉少なにローレの肩をガシッと力強く叩いた。
「……アンタがいなきゃ、あの化け物の防壁が崩れた後も、どうなってたか分からないっす。流石ですよ、師匠」
ゴールアーランの後ろから、ムートがどこか苦笑気味に、しかし誇らしげな顔で近づいてくる。彼の長剣も刃こぼれが酷く、紫電を使いすぎた反動で右腕が痙攣していた。しかし、そんな事など気にする素振りなく、ムートはローレの隣に腰を下ろし、あぐらをかく。
「全く……手のかかる弟子たちですねぇ。後で相手にできなかった分だけ、修行しますか?」
ローレの言葉にムートとゴールアーランは一瞬ポカンとした後、無邪気に破顔した。
「勘弁してくださいよ、師匠。これでも限界まで体を酷使したあとっすよ!?」
「もう動けないぜー! へへッ」
軽口を叩く彼らの姿に、ローレの口元にも微かな笑みが漏れる。
「ローレ様、それに皆様。本当にお疲れ様でした」
フルーヴが静かに歩み寄り、一礼した。彼女の紫の杖の先からは、微弱ながらも魔力が漏れ続けている。
「続々と到着した冒険者ギルドの応援部隊と、聖王国の『五神魔導師』が、現在ゲファールリッヒ周辺に『半永久結界』の構築を開始しました。これにて、ゲファールリッヒの活動は完全に停止します」
「……」
フルーヴの言葉の直後。
ローレの腰に下げられた鞘の魔核が、淡い光を放ち、リールの安堵に満ちた声が響いた。
「──各部隊、生存者並びに負傷者の回収を優先。……これにて、ゲファールリッヒ沈静化作戦を終了とするわ!! みんな、本当によく生きて帰ってきてくれたのよ。……本当に」
その通信を合図にするように、戦場のあちこちから、生き残った者たちの歓声と、そして、戦友を喪った者たちの嗚咽が混ざり合って上がった。
その時、ローレがふと剣術兵団長、ロンの存在を思い出す。そして、彼は生きているのか? 今何処にいるのか、とムートに聞いてみれば、少し苦しそうな表情で視線を奥へ流した。
ムートの視線の先。
少し離れた場所では、聖王国の剣術兵団長ロンが、泥に塗れた兵士の遺体を一つ一つ抱き起こし、その泥を拭いながら静かに弔いの言葉を捧げているのが見えた。
その背中は悲哀に満ちており、彼らが支払った代償の重さを物語っていた。
冒険者となったのなら。
人々を守護するべく、辺境潰しを名乗るのなら。
嫌でも死の危険は背中に張り付く。
それが今回やってきた。
彼らの死因はそれだけなのだ。
多少は割り切らねば、正気を保つことなどできない。
この攻略戦は文字通り命懸けの作戦だった。
残酷だが、犠牲はつきものなのだ。
ローレは深く息を吐き、視線をシリエに戻した。
「さて。感傷に浸るのも良いですが、私には聞かなければならない事があります。シリエ、それにめーちゃん」
「はい、何でしょうか!」
「答える準備は万端だめ!」
ローレの問いに耳をピコンと立ててシリエが返事をする。続けてめーちゃんもピカピカの両翼で空を飛び回り、シリエの頭の上に着地した。
何の問いかは分かってるだろうに、シリエもめーちゃんも多少なりとも勝利に酔っているということだ。
「貴方はあの土壇場で腹を貫かれ、頭から魔物の渦に落ちたはずですが……どのようにして、そこから生還したのです?」
ローレの鋭い問いに、シリエはうんうんと頷いた後、頭の上でフンフンと鼻を鳴らしているめーちゃんの顎に優しく手を当てて説明を始めた。
「私は、あの瞬間比喩なしに死を覚悟しました。いくら貴方様といえど、あの距離で私に追いつくのは不可能でしたし、私を助けてしまえば、草原に存在していた全ての命が消し飛んでいました。私は落下するしかなかったのです」
シリエの言葉に、話を聞いていた者たちの背筋に冷たいものが走る。本当に、寸分でも狂えば全員が死んでおかしくない状況だったのだ。
シリエは話を続ける。
「その瞬間、めーちゃんが落ちていく私の修道服の襟首を……その、力強く噛んで引き上げてくださったのです! そして、あの巨大な怪物の攻撃圏の外れに運び、そこでフルーヴ殿とネル殿に私を引き渡してくれたのですよ!」
ローレは、ぽかんと口を開けた。
序列一位のシリエを引き上げるほどの力。あの土壇場、無数に暴れ狂う死骸の弾幕の隙間を縫って、それを行うだけの感知能力と飛行速度。
ただの『ハピネスバット』に、到底可能な芸当ではない。
シリエの言葉にめーちゃんが補足を加える。
「実は、成れ果てのヤツが入り口から出てきた時から、ヌシはその近くに隠れてため。だから、黒い球体にシリエが錫杖を突き立ててたのも見てたし、仰向けに落下する瞬間も見てため。だからすぐに助けられたんめよ」
なるほど、とローレが顎に指を当てる。
めーちゃんの言うことには確かに筋があった。
シリエを抱えて成れ果ての手から無傷で逃れられる事が前提であることを除いて。
ローレの片眼鏡の奥の瞳が、細められる。
……しかし、今は「ふっ──」と息を吐き、優しい手つきでめーちゃんの頭を撫でた。
「よく、やりましたねぇ。大きな借りができてしまいました」
「ふ、ふんっ! もっと褒めるのを許すめ!」
「……ええ。本当に、皆が無事で、生きていてくれて良かった」
ローレは心底安堵したように、微かに微笑んだ。
戦いが終わり、仲間たちが生きている。今はそれだけで十分だった。
息を整え、歩けるぐらいには皆が回復すると、魔導通信越しに、リールの帰還命令が耳に入った。なんでも、半永久結界の範囲内にいるのは危険だから、即刻ゲファールリッヒを中心とした半径一〇〇キロメートルから離れる必要があるのだそうだ。
そうして戦いを終えた者たちは、肩を貸し合って、傷を拭いながらも戦場をあとに歩いていった。
そうしてローレ達も歩みを進め、円形範囲を抜ける頃、シリエが急に立ち止まり、表情を変えずにこう言った。
「……我が主よ! 私、少し野暮用を思い出してしまいました。負傷者の治癒に回る前に、少しだけお時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
「野暮用? 構いませんが、無茶はしない範囲でお願いしますよ」
「はいっ! すぐに戻りますので!」
たったったっ、とシリエは軽くローレ達から離れていく。その左手には白く明滅する錫杖が握られていて──シリエは錫杖に向けて先ほどとは異なる、底冷えた声でこう言った。
「至急、《《円卓》》の招集を。時刻は──」
夜風がその一言に、揺らいだ。




