安芸の復讐と幻の魚4
「それでは二本目、『魚料理(主菜)』の審査に入る!」
先行は安芸の国。
シオドウの「真鯛の塩焼き」。
「どうぞ、海の王の味をご賞味あれ」
香ばしい香りと共に、完璧な火入れで焼かれた鯛。
「……うむ、完璧だ。満月の藻塩が、鯛の甘みを極限まで引き出している」
審査員たちは唸る。
これぞ王道。
揺るぎない、追随を許さぬ、美味さ。
後攻、邪馬台国。
朔が出したのは、冬の日差しを浴びてキラキラと輝く氷の器。
その上で、白い花弁のような魚の切り身が光を放っている。
「クエの薄造り」である。
朔は審査員たちの前に、小さな皿を配った。
そこには、黒く艶のある液体と、鮮やかな緑色のペーストが乗せられている。
「なんだこれは? 毒ではないだろうな?」
斯馬国の王が警戒する。
「これは『醤油』と『山葵』です。こちらの刺身につけて召し上がってください」
「さ、刺身!? 生で食うのか!?」
会場が騒然となった。
氷がないこの時代、魚を生で食べる習慣はほとんどなかった。
醤油はもちろん、根茎を摺り下ろす、わさびも知られていない。
すべてが、初めての食材ばかりであった。
「正気か!? そんなものを食えば、腹を壊すぞ!」
「愚かな……奇をてらうにも程がある。我々を毒殺する気か?」
ジリトも、ここぞとばかりに罵声を浴びせる。
しかし、朔は揺るがない。
「大丈夫です。食べていただければわかります」
アカネも腕を組み、ごちゃごちゃ言わずにさっさと食べなさいよ、と審査員席を睨んでいる。
それでも、誰もが箸を伸ばすのを躊躇し、互いに顔を見合わせている。
「誰か毒見を……」
「いや、さすがにあれは……」
「――私がいただこう」
その重苦しい空気を破ったのは、卑弥呼だった。
「サクが命がけで釣り、魂を込めて作った料理だ。それを疑うことこそ、王としての恥。私は信じる」
卑弥呼はスッと箸を伸ばし、透き通る白身を一切れ掴んだ。
言われた通りに醤油と山葵をつけ、口元へ運ぶ。
会場中が固唾を飲んで見守る。
もぐ……。
咀嚼する音が、静寂に響くようだった。
一瞬の後。
卑弥呼の瞳が、見開かれた。
「……っ!」
「卑弥呼様!?」
卑弥呼は口元を袖で隠したが、その目尻には涙さえ滲んでいた。
「……なんと」
震える声で、彼女は言った。
「醬が見事に生臭さを消し去っている! 生で食べる魚がこれほどにうまいとは……! 口の中でとろけるような甘み、そしてこの香気……! 焼き魚とは比べ物にならぬ、命そのものの瑞々《みずみず》しさが溢れてくる!」
さらに、わさびの刺激に感嘆する。
「それに、この緑の薬味……『わさび』と言ったか。鼻に抜ける辛味が、醬と合わさって魚の脂を洗い流し、次の一口を欲させる。あのわさびがこれほど生魚に合うとは……驚きだ。これこそ、至高の美味!」
卑弥呼の絶賛に、会場がざわめく。
しかし。
「ふん、芝居だ! 身内贔屓もいい加減にしろ!」
「そうだそうだ! 毒を食って美味いなどと、見え透いた嘘を!」
安芸の国の陣営からは心無い野次が飛んだ。
「……哀れだな。勝つために自ら泥を食って見せるとは」
ジリトも冷ややかな目で嘲笑う。
その罵声の中、もう一人の人物が静かに箸を取った。
越の女王、ヌナカワである。
「……私も、サク様を信じます」
「ヌナカワ殿!?」
ジリトが眉をひそめる。
「貴殿は中立の立場だ。あんなゲテモノに付き合う必要はない!」
しかし、ヌナカワは凛とした声で返した。
「彼は私達の常識を遥かに超えた賢者なのです。彼が大丈夫と言っている以上、毒が入っているはずはありません」
彼女は上品な手つきで刺身を口に運んだ。
そして――。
「………!」
その美しい顔が、一瞬にして紅潮した。
「こ、これは……!」
「どうした!? やはり不味いのか!?」
安芸の兵士たちが期待を込めて叫ぶ。
ヌナカワは彼らを一瞥もしなかった。
ただ、感動に打ち震えるように息を吐いた。
「……これが、久絵……。なんと素晴らしい。もはや言葉もありません」
「なっ……!?」
ヌナカワは熱っぽい視線で朔を見つめた。
「冷たく引き締まった身が、舌の上で体温により解け、上質な脂がじゅわりと広がります……。それに、この黒い雫と緑の薬味……卑弥呼様のおっしゃる通り、これらが脂の甘みを、爆発的に引き立てています」
彼女は次の一切れに手を伸ばした。
「あの黒い化け物のような見た目からは、この繊細かつ濃厚な味は想像もつきません。確かにこれは至高の美味です」
中立国の長が、利害関係のない立場で絶賛した。
これ以上の証明はない。
「もちろん俺もいただく。サク殿の料理を楽しみにしてきたのだからな」
そういって、出雲の国のオオクニも、刺し身に手を伸ばす。
そして口にした途端、おお、とその顔に笑みを浮かべた。
「……やれやれ、参った。これは毒だ」
「なっ」
卑弥呼とヌナカワが、えっ、という顔でオオクニを見た。
「みんな、食うな。俺が全部食う」
そう言って、クエの刺身を最高の笑顔で食べ始める。
「驚かすな、オオクニ」
「もう! オオクニ様ったら」
「ハハハ、いいから残せって。みんな、食うなよ!」
オオクニの冗談は、会場の黒い疑いをきれいさっぱり洗い流した。
「そ、そんなに美味いのか……? どれ」
斯馬国の王も箸を伸ばした。
「……むおお……!?」
そして、斯馬国の王はしみたわさびに軽く涙目になりながら、親指を立ててグー、とアピールする。
(バカな……生の魚だと? しかもあの、黒い塊だぞ?)
ジリトは嫌な予感がした。
前回の「五色の宝飯」の敗北がフラッシュバックする。
あの時も、奇抜な料理に油断し、一口食べた瞬間に膝から崩れ落ちたのだ。
今回もまた、同じ悪夢を見せられるのではないか。
先んじて、膝ががくがくと震え始める。
恐怖が、彼の箸を止めさせていた。
「ジリト王、召し上がらないのですか?」
ヌナカワが不思議そうに声をかける。
「早く食べてみてください。こんな美味、一生に一度出会えるかどうかですよ」
観衆からも声が上がる。
「食べろ! 食べろ!」
「安芸の王は逃げるのか!」
周囲の視線が突き刺さる。
ジリトは額に汗を浮かべ、震える手で箸を握りしめた。
「くっ」
彼は意を決し、しぶしぶと薄造りを一切れ掴んだ。
念の為に、今回はちゃんと座っておく。
醤油を言われた通りにつけ、恐る恐る口へ運ぶ。
(どうせ泥臭いだけだ……すぐに吐き出してやる……)
舌に乗せた、その瞬間。
カラン。
乾いた音が響いた。
ジリトの手から箸が滑り落ち、地面に転がったのだ。
「………」
彼は目を見開いたまま、彫像のように硬直していた。
思考が真っ白になる。
「な……なんだ、これは……」
泥臭さなど、どこにある。
微塵もないではないか。
あるのは、澄み渡るような上品な脂の甘みと、それを引き締める醤油とわさびの奇跡的な調和。
鯛の塩焼きが「太陽」ならば、これは「深海」。
底知れぬ深みと、抗いがたい引力を持った旨味の塊。
引きずり込まれる。
「あ……ああ……」
ジリトは呆然と呟き、震える手で再び箸を拾い上げた。
そして、憑かれたように次の切り身を口へ運ぶ。
一枚、また一枚。
止められない、止まらない。
なぜ、あんな不気味な魚が、これほどの……!
「うまい……うまいぞ……!」
気づけば彼は前のめりになって、刺身を貪っていた。
あっという間に皿が空になると、我に返ったジリトは顔面蒼白になった。
「ま、まずい……またやってしまった!」
二本目、勝者・邪馬台国。
この時点で二勝、邪馬台国の勝利は確定した。
「それでは三本目、『汁もの』!」
斯馬国の王が声を張る。
「すでに勝負は決したが、せっかく用意された品だ。最後まで味わおうではないか」
先行は安芸の国。シオドウの「真鯛の潮汁」。
透き通った美しい黄金色のスープである。
「ふぅ……染み渡る。余計な味付けは一切ない。鯛の命そのものをいただいているようだ」
中立国の審査員たちは絶賛する。
「なんと上品な」
「出汁の引き方が神業だ」
「………」
しかし、ジリトは自国の汁を口にしても震えていた。
クエの恐ろしさを肌で感じ始めていたのだ。
後攻、邪馬台国。
朔が取り分けたのは、白濁し、とろみのついた濃厚なスープ「九絵鍋」。
そこには、「特製つみれ」や野菜が煮込まれている。
九絵の身をすり鉢で叩き、自然薯(山芋)を練り込んだふわふわのつみれ。原木椎茸、甘みのある蕪、そして香りの強い野蒜や浅葱。
「この濁った汁は……」
斯馬国の王が怪訝な顔で一口飲んだ瞬間。
「こ、これは……!?」
斯馬国の王が匙を止めることができない。
「潮汁が『清流』なら、これは『奔流』……! 暴力的なまでのコク! 口の周りが張り付くほどの濃厚なとろみ。骨の髄から出た旨味が、舌に絡みついて離れない!」
「たった二時間で、これほどのスープを……!?」
料理人のシオドウも、信じられないという顔で鍋を凝視する。
鯛のアラで取ったダシなど、まったく比較にならなかった。
ジリトもまた、震える手でスープを口にしていた。
「……だめだ。悔しいが美味すぎる」
クエの皮とアラから溶け出したゼラチン質が、スープ全体を濃厚にまとめ上げている。
そして、つみれ。
噛んだ瞬間、自然薯によるふわふわの食感と共に、クエの旨味と椎茸の香りが口いっぱいに広がる。
「刺身で未知の衝撃を与え、鍋で体の芯から満たしてくる……これは敵わぬ。完璧な布陣だ」
ジリトは苦々しい表情のまま、力なく箸を置いた。
審査結果は、一本目、二本目、三本目、すべて邪馬台国の勝利。
文句のつけようもない完全勝利だった。
「サクよ、見事であった!」
卑弥呼が待ちきれなかった様子で審査員席から立ち上がり、朔の元へと駆け寄った。
その瞳は、興奮と称賛でキラキラと輝いている。
「まさかこれほどとは思わなんだ。海の怪物にしか見えぬあの魚が、これほどまでに清らかで、かつ力強い旨味を秘めていようとは」
彼女は高揚を隠しきれない様子で、朔の肩を強く掴んだ。
「よくやってくれた。この国の未来はそなたの双肩にかかっている。これからも我らがために、その驚異を見せ続けるがよい」
「はい。ありがとうございます。……あ、皆様。おかわりありますよ」
朔はまわりにやってきた皆に、鍋の残りを振る舞う。
タケヒコ、卑弥呼のほか、そこには空の椀を持ったヌナカワやオオクニの姿もある。
「私が最高のすり身を作ったんだから、勝つのは当然なのよ」
アカネの頬は嬉しそうに緩んでいる。
彼女は自分の手柄を誇示しながらも、テキパキとクエ鍋を皆の器に盛り付けていった。
「……ふぅ。うまい。温まりますな」
タケヒコが、たまらんと言った様子でクエ鍋の汁を飲み干す。
ヌナカワも、温かい椀を大切そうに両手で包み込みながら頷く。
「ええ、本当に。身はふわふわとして、それでいて噛みしめるほどに深みが増して……。それにしてもサク様、よくこんな魚を釣り上げましたね」
「いやぁ、運が良かっただけですよ。次はもう釣れる気がしません」
そういって、朔はユズリハを見た。
あの時、彼女が手伝ってくれなかったら、海に落ちてやばかったかもな。
ユズリハも朔を見ていた。
その赤銅色の瞳には、冷徹な侍女の仮面では隠しきれない柔らかな色が混じっていた。
――よかったね。
ユズリハは、声に出さず、口パクだけでそう言った。
ああ、ありがとう。
朔も口パクだけで、彼女に感謝を伝えた。
彼女は多くは語らない。
けれど、その一言と柔らかな眼差しだけで、朔には十分だった。




