鯛の塩焼き
青い海を背にした、とある港町の朝。
至る所で魚を積んだ荷車が石畳を鳴らし、潮の香りと威勢のいい競り声が入り混じっている。
視察のために通りを歩く朔は、その喧騒を楽しみながら周囲を観察していた。
この港町の地下にも朔の氷室が設置されており、氷が量産され、鮮魚の維持などに利用されている。
今は初冬なのもあり、足の早い魚も保ちがいいが、夏は氷をもっと大量に使わねばならないな、と朔は顎をさすりながら思案していた。
「サク、独り言が多いな」
隣を歩くユズリハが、抑揚のない声で言う。
緋色の衣を海風にたなびかせ、赤銅色の髪を揺らしながら歩く彼女の姿は、この荒々しい港町には不釣り合いなほど優雅だ。
だがその瞳は鋭く周囲を警戒し、朔の身の安全を一時も疎かにしていない。
「あ、なんか言ってた?」
「自分で気づかないものなのか」
ユズリハが笑みながら、ため息をつく。
そんな平和な散策が続くかと思われた矢先、路地裏からそれを切り裂くような怒声が響いた。
「――二度とその面を見せるな! 娘はやらんし、修行も終わりだ!」
朔は足を止めた。
ユズリハと顔を見合わせる。
「……ちょっと見てくる」
「サク」
「これも仕事のうちだ」
ユズリハの制止を軽く受け流し、朔は声のする方へと早足で歩き出す。
『波音』と看板のある料理屋の裏口で、一人の青年が地面に転がっていた。
続いて投げ捨てられたのは、ところどころ焦げ付いた「鯛の塩焼き」だった。
「待ってください親方! 俺、必死に火の番をして……!」
青年が泥にまみれながら、無惨に折れ曲がった鯛を拾い集めようとしている。
「お父様、もうやめて! タスクさんだって一生懸命……!」
店の奥から、一人の若い娘が飛び出してきた。
名をナギ。
この店の店主の娘であり、タスクと相思相愛の相手でもあった。
ナギは涙を浮かべながら父の腕を掴んだが、店主はそれを乱暴に振り払った。
「一生懸命なら何でもいいのか! 皮は焦げて剥がれ、身はパサパサで旨味もねえ。こんなゴミを客に出せると思っているのか!」
朔はその「ゴミ」と呼ばれた鯛に目を向けた。
その表面は一部焦げ、串の打ち方が悪いせいで身も崩れている。
「何度も言わせるな。約束の三ヶ月は過ぎた。お前はなにもわかっちゃいねぇ。娘はやらん! 出ていけ!」
「親方!」
「お父様!」
二人の静止も虚しく、父親は店の中に入ってぴしゃりと裏口の戸を閉めた。
静まり返った裏路地で、タスクは震える手で焦げた鯛を抱えたまま、力なく項垂れた。
「そんな……どうしよう……」
「ナギさん……。ごめん、俺の力が足りないばかりに……。このままでは、君と……」
うぅっ、と涙を流し、若い二人が絶望に沈んで肩を寄せ合っている。
そこへ、朔が近づいた。
「たしかにこれでは、鯛がかわいそうだ」
朔がしゃがみ込み、落ちていた焦げた鯛を拾い、まじまじと見る。
タスクとナギが顔を上げた。
目の前には、不思議な空気を纏った青年と、その背後で氷のような瞳で見守る美しい女性が立っている。
「……あ、あんたは?」
「通りすがりの者さ。ただあなた達と同様に、多少料理をたしなんでいる」
朔は焦げた鯛を手の上に乗せ、二人の前に差し出す。
「熱の強さは、距離の二乗に反比例するのを知っているか」
「……え? ハンピ……?」
「これは焦げだけじゃない。表面が焼き固まって旨味を閉じ込める『壁』になる前に、強すぎる熱が中の水分を一気に沸騰させてしまっているんだ。これでは、旨味を凝縮させることはできない」
朔の独り言のような解説に、タスクとナギは驚く。
「……あ、あんた、何者だ……?」
「皮が焦げて身がパサつくのは、そういうことだ。まぁ焦げてても、正しい串打ちと熱反射の計算さえ合っていれば、身はふっくらと焼けたはずなんだがな」
その分析の鋭さと、目の前の失敗を「解決可能な事象」として断じる響きに、タスクは驚きとともに次元の違う頼もしさを感じた。
「只者じゃない……」
タスクは抱えていた鯛を置き、石畳の上に両手をついた。
そして、勢いよく頭を下げる。
「お願いします! 俺に、その理屈を教えてください! 後生です、このままじゃナギさんと離れ離れになってしまう……。俺、何でもします。命だって惜しくない! 教えてください!」
ナギもまた、タスクの隣で深く頭を下げた。
「お願いします、タスクさんを助けてあげてください……!」
朔は苦笑しながら、タスクの肩を叩いた。
「顔を上げてくれ。命をかける必要なんてないさ。一週間あれば、親方さんを黙らせる塩焼きを焼けるようになる。やってみるか?」
「……本当ですか!? ありがとうございます!」
「ああ、約束するよ。ただし、修行は少しばかりハードになるが」
◇◆◇◆◇◆◇
王宮の厨房。
そこは、徹底的に磨き上げられた清浄な空間だった。
「お、おおお、王宮料理人様だったのか……」
顔を青くするタスク。
足が無意識に、一歩、二歩とあとずさる。
「驚いている暇はないぞ」
朔はタスクを厨房内に案内する。
タスクの修行は、魚を焼く前から始まった。
「まず、その手を洗え。爪の間の汚れ一つが味を腐らせる。いいか、衛生こそが料理のスタートラインだ」
石鹸で、タスクは一日に何度も手を洗わされた。
「指先の熱が伝わるたびに、魚の温度が上がる。脂は酸化し、鮮度は死んでいく」
タスクは氷水で手を冷やし、感覚がなくなった指先で鯛を捌き続けた。
二日目、朔はタスクに「串打ち」の物理を叩き込んだ。
「魚を焼くのは、ただ火にかざすことじゃない。三本の串を打つことで、魚の体を立体的な『空力回路』にするんだ。ヒレを立てろ。それが熱を逃がし、同時に全体に熱を巡らせる放熱板になる」
朔はタスクの横で、空中に熱の伝わり方を指で描いて見せる。
「前にも言ったが、火の熱エネルギーは距離の二乗に反比例する。わずかの差が、天国と地獄を分けるんだ。火の力と距離感は、身体で覚えろ」
三日目、四日目。タスクの顔は炭火の放射熱で赤く焼け、手は串の刺し傷と氷水の冷たさでボロボロになった。
だが、タスクは歯を食いしばって耐え忍んだ。
「こんなことじゃへこたれない。俺は、あいつの隣にいたいんだ……!」
タスクは震える手で再び魚を掴んだ。
五日目、朔は「塩の科学」を伝授した。
「塩は味付けじゃない。脱水と、タンパク質の変質だ。ヒレには雪のように厚く塗り、焦げを防ぐ『防壁』にしろ。だが身には、霧のように薄く均一に振る。水分を適度に抜き、旨味を濃縮させるためだ」
六日目。タスクの動きに無駄がなくなった。
朔の理論を頭で理解するのではなく、指先が熱の波長を感じ取っているかのようだった。
「よし。明日は本番だ。タスク、最後の仕上げだ。お前は誰のためにこれを焼く?」
「……ナギさんと、親方のためです。俺の覚悟を、味で伝えるために」
朔は満足げに頷いた。
◇◆◇◆◇◆◇
一週間後。港町の『波音』。
約束の朝、三人は再び裏口の戸を叩いた。
現れた店主とナギの前に、タスクは静かに鯛の塩焼きを差し出した。
「今、焼いてきました」
それは、黄金の光を放つ芸術品だった。
皿の上で今まさに海を跳ねるかのようにしなった鯛。
「むっ」
ヒレは純白の塩を纏ってピンと張り、焦げ一つない皮からは、透明な脂が輝きながら溢れている。
「食べてやってください。タスクが学んだのは、根性じゃなく熱の『放射』と『反射』。そして、誰かを想う心」
朔が腕を組んで促す。
店主は半信半疑のまま、箸を身に突き立てた。
「……っ!? パリッと音がした……!」
皮を破った瞬間、白い湯気と共に、閉じ込められていた海の香りが爆発した。
口に入れた瞬間、身は驚くほどふっくらとしており、噛む必要がないほどに解けていく。
「むぅ……」
「……信じられない。これ、本当にタスクさんが……?」
ナギも一口食べ、そのあまりの鮮烈な味に涙を流した。
「皮はこんなに香ばしいのに、中は信じられないほど瑞々しいわ」
「皮を鎧のように焼き固めて旨味を閉じ込める。この人の教えだ」
タスクはサクを見ながら、そう答えた。
「……たった一週間でここまで変わるとはな」
店主は鯛を骨だけにして手を合わせると、震える手で箸を置いた。
「これほどの塩焼き、俺にも作れん」
店主は初めて、笑顔を見せた。
「タスク。……戻ってこい。修行は、これからだ」
「親方……!」
タスクの目から大粒の涙が溢れた。
ナギがたまらず駆け寄り、タスクの傷だらけの手を優しく、しかし力強く包み込んだ。
「おかえりなさい、タスクさん!」
それを確認すると、朔はひらひらと手を振って、夕暮れの海風の中を歩き出す。
「な? 関わってよかっただろ」
「そうだが……護衛をする私の身にもなってみろ」
ユズリハは小走りに駆け寄って、朔の隣に並んだ。
言葉の内容とは裏腹に、朔との距離はいつもより近い。
「これでまた二人、幸せになった」
「うん」
二人の影は、潮騒の音に包まれながら、王宮へと続く坂道を登っていった。




