大陸からの使者 後編
「鶏だと! ククッ、まさか鶏を出してくるとは! おい料理人、お前は無知蒙昧にも程があるぞ!」
楊修は扇子で朔を指し示し、得意げに語り始めた。
「鶏は、我が国では非常に食べ慣れた食材であることを知らぬのか。我が国で研究し尽くされた食材で、この私を満足させに来るとは、愚かを通り越して、まさに愚の骨頂!」
彼の嘲笑が広間に響き渡る。
魏の随員たちも、つられてクスクスと笑う。
だが、朔は表情一つ変えなかった。
ただ静かに、自信に満ちた目で楊修を見つめ返した。
「愚の骨頂かどうか……それは、召し上がってからご判断を」
楊修の笑いが、ふと止まった。
漂ってきた香りに、気づいたからだ。
それは、彼の理屈をねじ伏せるような、暴力的なまでの香ばしさだった。
朔が作った「醤油」が焦げる香ばしさ。
熱せられたニンニクと生姜の刺激的な芳香。
そして、鶏の脂が高温の油で爆ぜる、甘美な匂い。
「む……?」
楊修はその香りに誘われるように、顔を近づけ、そして心底不思議そうに眉根を寄せた。
彼が知る鶏料理は、蒸すか煮るかで、白くふやけた姿をしている。
だが目の前のこれはどうだ。
黄金色の鎧をまとい、荒々しくも美しい。
「……待て。鶏がどうやったら、こうなる?」
思わず口をついて出た、素朴な疑問だった。
朔は答えない。
「むう」
楊修は疑い深く箸を伸ばし、その塊をつまみ上げた。
そして、毒見をするかのように、端を少しかじった。
――カリッ、サクッ!!
広間中に響き渡るような、軽快な破裂音が、楊修の鼓膜を震わせた。
「……!?」
次の瞬間、彼の目は驚愕に見開かれた。
(……衣!? なんだ、この軽やかな歯ざわりは!?)
朔特製の、米粉と小麦粉をブレンドした衣は、油切れが良く、驚くほどにクリスピー。
だが、真の衝撃はその後に訪れた。
カリカリの衣を突破した歯が、弾力のある肉に食い込んだ瞬間。
(なにっ!?)
じゅわぁぁぁっと、信じられないほどの熱量と共に、濃厚な肉汁が奔流となって口の中に爆発したのだ。
「……むぐっ!?」
楊修は思わず手で口を押さえた。
醤油と生姜、ニンニクの強烈なパンチが効いた下味が、肉の繊維一本一本にまで染み渡っている。
パサパサであるはずの鶏肉が、信じられないほど柔らかく、ジューシーだった。
噛めば噛むほど、鶏の脂の甘みと、醤油の旨味が溢れ出してくる。
(馬鹿な……これが鶏だと? 旨味の塊ではないか!)
楊修の箸が止まらない。
彼は無意識のうちに二つ目の唐揚げを口に放り込んでいた。
「楊修様、次はこちらをつけて」
朔がすかさず差し出したのは、小さな器に入った、雪のように白く、とろりとしたソース。
酸味とコクの塊、『弥生マヨネーズ』である。
「ほう。ソースか」
言われるがままに、熱々の唐揚げにその白いソースをたっぷりとつけて食べた楊修は、「ぬうぅっ!?」と目を大きく見開いた。
「酸っぱい……いや、まろやか!? 待て。脂に脂を重ねて、なぜこんなに美味いのだ!?」
天才の脳内計算が追いつかない。
唐揚げの「動物性の脂」と、マヨネーズの「植物性の油」が、酢の酸味によって奇跡的な融合を果たしている。
「これは『料理』ではない……これは、人を堕落させる『魔術』!」
楊修が叫んだその時、朔がさらに追撃の手を打った。
「喉が渇きましょう」
ポンッ! という音と共に抜栓されて注がれる、冷え切った黄金色の泡立つ液体。
『炭酸麦酒』。
「……泡? 腐っているのか?」
楊修は恐る恐る、しかし喉の渇きに耐えきれずに、その杯を煽った。
――キュゥゥゥッ……!!
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……プハァッ!!
「……さ、さささ、酒だと!?」
楊修の目が白黒した。
喉を突き刺す、無数の針のような「炭酸」の刺激。
そして、脳天まで突き抜けるような、「冷たさ」。
「ど、どうやってこんなに冷やしている!?」
唐揚げとマヨネーズで脂っぽくなった口の中が、麦の香ばしさとホップ代わりの薬草の「爽快な苦味」によって、一瞬にして洗い流されていく。
「くそ、うまいっ!! なんだこれは!!」
楊修は叫ばずにはいられなかった。
そして、口の中がリセットされると、また猛烈に、あの脂っこい唐揚げが欲しくなるのだ。
カリッ、ジュワッ。
ゴクッ、ゴクッゴクッ。
カリッ、ジュワッ。
「ば、馬鹿な……止まらん……私の手が、手が勝手に……!?」
魏の天才軍師が、完全に崩壊していた。
本能が、彼を支配していた。
彼は無言で、一心不乱に、鶏をむさぼり食い、マヨネーズを舐めとり、麦酒をごきゅごきゅ飲み干した。
◇◆◇◆◇◆◇
……やがて。
皿の上には何も残っていなかった。
杯も空になり、ただ白い泡の名残が張り付いているだけだった。
楊修は、呆然と空の皿を見つめていた。
満腹感と、そして体の芯から震え上がるような戦慄が彼を襲っていた。
(……ありえぬ)
彼は心の中で、うめくように独白した。
(鶏の価値を逆転させる発想。油と酢を乳化させる化学。そして、水を沸騰させるのではなく、冷やし、かつ泡立たせる技術……)
彼はちらりと朔を見た。
この料理人は、ただの料理人ではない。
(魏の宮廷料理人どころか、知識人たちを集めても、この発想にはたどり着けぬ。……いや、これはもはや料理ではない。『国力』だ)
食糧を保存し、美味しく加工し、兵の士気を爆発的に高める技術。
もし、この技術が軍事転用されれば?
(恐ろしい……。この東の果てに、これほどの『怪物』が潜んでいようとは……!)
楊修は顔を青くし、バッと立ち上がった。
そして、悔し紛れに扇子を開き、顔を隠した。
その手は、恐怖と興奮で小刻みに震えていた。
「……ふん。……珍しいだけの味だ」
彼は決して「美味い」とは言わなかった。
だが、その声の震えは隠せなかった。
「だが、まあ……泥を啜るよりは、幾分かマシだったと、認めてやらんこともない」
精一杯の虚勢だった。
楊修は、懐から大切そうに包まれた袋を取り出し、テーブルに放り投げた。
「代金だ! タダ飯を食ったとあっては、魏の名折れ!」
それはなんと、西域の商人から買い付けた、貴重な『黒胡椒』であった。
それを全て置いていくあたりに、彼の完敗の弁が込められていた。
「勘違いするなよ! これは手切れ金だ! 二度と来るものか! いや、もう一回くらい来るかも」
楊修はそう叫ぶと、逃げるように踵を返した。
そして去り際、入り口で一度だけ振り返り、朔を睨みつけた。
「……おい料理人! その鶏の製法、後で詳細に書状にして送れ! ……軍の兵糧として検討してやるだけだ! あくまで仕事だ、勘違いするな!」
その時。
凛とした、しかし絶対的な冷徹さを帯びた声が、広間に響き渡った。
「――ならぬ」
楊修の足が止まった。
ギクリとして彼が振り返ると、そこには御簾を上げ、扇を下げて素顔を晒した卑弥呼が、底冷えのするような冷ややかな瞳で、彼を見下ろしていた。
通訳が震えながら、女王の言葉を訳した。
「製法など、送らぬ」
「な……なに!?」
楊修は色めき立った。
「魏に楯突く気か! たかが料理の作り方ひとつ……!」
「たかが、ではない」
卑弥呼は、玉座からゆっくりと立ち上がり、毅然と言い放った。
「汝は申したな。この国の民は『泥を啜る』と。……ならば、泥の作り方など知る必要はあるまい」
「……っ!?」
楊修は言葉を詰まらせた。
自らが吐いた暴言が、鋭い刃となって喉元に突きつけられたのだ。
「これは我が国の叡智。我が国の民を豊かにするための宝。……礼節を知らぬ無粋者にくれてやるほど、安くはない」
卑弥呼は、楊修の目を真っ直ぐに見据え、尊大に言い放った。
「致し方あるまい。……どうしても欲しくば、出直してくるが良い。泥ではなく『宝』を乞う者としての礼を尽くしてな」
「………」
ぐうの音も出なかった。
論理、礼儀、そして品格。
そのすべてにおいて、楊修は完全に敗北したのだ。
(……くっ、おのれ……!)
楊修は歯噛みした。
だが、言い返す言葉は見つからなかった。
彼は顔を真っ赤にして、逃げるように広間を飛び出した。
ドカドカと足音を立てて去っていく「魏の天才」の背中。
その胸中には、朔への恐怖に加え、この国を統べる女王の「底知れなさ」への戦慄が刻み込まれていた。
(報告せねばならん……! 曹操公に、直ちに! 東の海に、魏の知恵を遥かに凌駕する『鬼才』あり。そして、それを従える『魔性の女王』あり、と……!)
楊修は足早に船へと向かった。
その足取りは、来た時の傲慢なものではなく、未知なる強大な文明と、それを統べる王の威厳に触れた者の、畏怖と焦燥に満ちたものだった。
後に残された朔とタケヒコ、そして卑弥呼は、そんな彼の内心など知るよしもなく、ただ勝者の静かな喜びに浸っていた。
しばらくの静寂の後、卑弥呼が小さく、しかし楽しそうに、その美しい唇を綻ばせた。
「……勝ったな、サク」
「はい」
朔は手に入れた黒胡椒を愛おしそうに拾い上げ、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
その顔には、勝利の確信と、新たな食材へのあくなき探求心が輝いていた。




