温かき白磁の床
邪馬台国の秋は短く、早くも冬の足音が静かに近づいてくる。
玄界灘から吹き付ける湿った北風は、衣服の隙間から容赦なく入り込み、人々の体温を奪っていく。
王宮とて例外ではない。
むしろ、風通しを良く作られた高床式の宮殿は床の隙間から涼風が入り、晩秋にもなると冷え込むのだ。
ある朝のこと。
朔は、朝餉の支度のために厨房へ向かう途中、渡り廊下でふと足を止めた。
向こうから、数人の侍女を従え、卑弥呼が歩いてくるのが見えたからだ。
朝の政務へ向かうところだろう。
朔は端に寄り、深く頭を下げる。
そばにいたユズリハもまた、無言で膝をついた。
「おはようございます、陛下」
卑弥呼は足を止めず、わずかに顎を引いて挨拶を返す。
だがその時、朔は見てしまった。
卑弥呼の歩みが、どこかぎこちないことに。
そして、板張りの床を踏みしめる彼女の足の指先が、痛々しいほど赤く腫れ上がり、白く変色しているのを。
(……しもやけだ)
朔の眉間に皺が寄る。
卑弥呼の行列が通り過ぎ、その姿が見えなくなると、朔は立ち上がりながら背後のユズリハに声をかけた。
「ユズリハ。……気づいていたか?」
「……はい」
ユズリハは短く答えた。
その声はいつも通り冷静だったが、わずかに沈痛な響きが含まれていた。
「陛下のおみ足……。赤く腫れ上がり、お歩きになるのも辛そうであらせられます」
この時代の履物は草履か、せいぜい鹿革の靴だ。
王宮の床は、格式こそあれど、冷たい木の板か、踏み固められた冷厳な土間である。
特に卑弥呼の私室や湯殿は、湿気がこもりやすく、底冷えが酷いと聞いていた。
「見ていられないな。……タケヒコ様は何と?」
「あの方も心を痛めている。夜具を増やし、火鉢を置くよう手配なさったが、床からの冷気だけはどうにも……」
ユズリハが悔しげに唇を噛む。
「毛皮を敷けば少しはマシになるが、湯殿では毛皮は使えないしな」
朔は腕を組み、虚空を見つめた。
彼の脳裏に、現代の知識と、この世界で手に入る素材の地図が広がる。
北部九州の山々には、良質な陶石やカオリン(粘土鉱物)が眠っている。
そして、彼の『クラフト』能力があれば、登り窯で数日かかる焼成工程も、時間はかからない。
「……よし、やるか」
「サク? 何をするつもりだ」
突然顔を上げた朔に、ユズリハが怪訝そうな顔をする。
「ユズリハ、タケヒコ様のところへ行くぞ。卑弥呼様の部屋と湯殿を、この国で一番暖かい場所に変える」
「部屋を、変える?」
「ああ。火鉢なんかじゃ追いつかない。床そのものを、春の日差しに変えてやるさ」
◇◆◇◆◇◆◇
その日の午後、朔はタケヒコを捕まえ、多少強引になったものの、許可を取り付けた。
「床を……張り替える? 姉上の私室と湯殿をか?」
タケヒコは目を丸くし、困惑の表情を浮かべた。
「謁見の間もさせてください。今のままでは、陛下のおみ足が限界です。しもやけは悪化すれば歩行も困難になります」
「それは……私も案じてはいた。だが、どうやって?」
「任せてください。三日。三日だけ、陛下を別の部屋にお移しいただければ、劇的に改善してみせます」
「三日で!? ……サク殿、貴殿の料理の腕は信じているが、大工仕事までできるのか?」
「大工仕事ではありませんが、なんとかします」
許可を得た朔は、すぐさま行動を開始した。
工房に大量の白土と、長石、珪石を運び込ませる。
そこへ、かまどの番をしていたアカネが、煤けた顔で覗き込んできた。
「なによこれ。いきなり大量の土なんか持ち込んで」
「『タイル』を作ろうと思ってな」
通常なら、乾燥させ、素焼きし、釉薬をかけ、さらに本焼きするという長い工程が必要だ。
だが朔の『クラフト』は素材の時間を圧縮する。
そこに現れたのは、透き通るような白さを持つ、硬質で滑らかな陶板だった。
表面にはガラス質の釉薬が輝き、まるで真珠を薄く切り出したかのようだ。
「き、きれい……! 何これ、宝石?」
アカネが思わず手を伸ばす。
ユズリハもまた、その美しさに目を奪われていた。
「『白磁のタイル』だ。水を通さず、汚れもつかない。カビも生えないし、何より熱をよく伝える」
「熱を?」
「ああ。これだけじゃただの冷たい石だ。だが、仕掛けはこの下につくる」
朔は次々と白いタイルを量産していく。
その枚数は数百枚に及んだ。
次に彼が作ったのは、赤レンガのような中空のブロックと、太い土管だった。
「行くぞアカネ、ユズリハ。ここからが体力勝負だ」
◇◆◇◆◇◆◇
卑弥呼が仮の宿所に移った隙を突き、朔は王宮の『謁見の間』、卑弥呼の『私室』と『湯殿』の床をすべて剥がした(クラフト能力)。
タケヒコが見たら卒倒しそうな光景だが、朔には迷いがない。
彼は床下の土を掘り下げ、そこにレンガを並べて「煙の通り道」を作った。
古代ローマの「地下煙突」と同じ原理だ。
建物の外に焚き口を作り、そこで薪を燃やす。
発生した熱気と煙を床下に引き込み、床全体を暖めてから、反対側の煙突へ逃がす仕組みである。
「なるほど……。火を直接部屋に入れないから、煙たくないってわけね」
手伝わされているアカネが、感心したように頷く。
「その通り。そして、この熱の通り道の上に、さっきのタイルを敷く」
朔はモルタル(石灰と火山灰で作った簡易セメント)を使い、白磁のタイルを隙間なく、幾何学模様を描くように敷き詰めていった。
殺風景だった木の床が、瞬く間に白く輝く神殿のような空間へと生まれ変わっていく。
湯殿も同様だ。
腐りかけていた木の簀子を撤去し、壁の下半分までタイルで覆った。
これなら湯がかかっても木が腐ることはない。
最後に、目地を丁寧に埋め、表面を磨き上げる。
窓ガラスも嵌めると、そこから差し込む冬の陽光が、白い床に反射し、部屋全体を柔らかい光で満たした。
「……すごい。なんか、ここだけ天国みたい」
アカネがため息をつく。
ユズリハも、黙ってその美しい床を見つめていたが、そっと手を触れて確かめていた。
朔は額の汗を拭い、満足げに笑った。
「よし、一日早いが、明日から使ってもらっていいだろう。外の釜に火を入れろ。弱火でじっくり、床全体を温めるんだ」
◇◆◇◆◇◆◇
約束より一日早い、二日後。
タケヒコに連れられ、卑弥呼が自室へと戻ってきた。
案内するタケヒコは、気が気でない様子だ。
「姉上、その……サク殿が言うには、劇的に変わったとのことですが……もしお気に召さなければ、すぐに元の板張りに戻させますゆえ」
「よい。あやつのすることだ。悪いようにはせぬだろう」
卑弥呼は静かに言い、私室の扉を開けた。
その瞬間。
ふわり、と。
春の野原に立ったような、柔らかな空気が彼女を包み込んだ。
「………!」
卑弥呼の目が大きく見開かれる。
目の前に広がるのは、見たこともない白亜の世界。
真珠のように輝く床が、部屋の隅々まで敷き詰められている。
「……おお……」
だが彼女を何より驚かせたのは、その「温度」だった。
火鉢もないのに、部屋全体が暖かい。
いや、熱源はどこかにある。それは……。
「陛下。どうぞ、お履き物を脱いで、その上へ」
部屋の隅に控えていた朔が、恭しく促した。
卑弥呼は逡巡した後、ゆっくりと鹿革の靴を脱ぎ、恐る恐るその白く輝く床に、凍えた素足を下ろした。
ひやり、とするはずだった。
石のように硬く、氷のように冷たい感触を予想していた。
だが。
「……あ……」
卑弥呼の口から、吐息のような声が漏れた。
温かい。
じんわりと、優しく、慈愛に満ちた熱が、足の裏から伝わってくる。
それは火で炙ったような激しい熱さではない。
日向で温まった石の上に立ったような、自然で、心地よい温もり。
痛む足先を、優しく包み込んでくれるような感覚。
「……サクよ、これは……夢か?」
卑弥呼は一歩、また一歩と、確かめるように歩を進めた。
どこを歩いても、その温もりは途切れない。
冷たい板の隙間から忍び込む風もない。
「夢ではありません。床の下に、熱の通り道を作りました。この陶器のタイルは、その熱を蓄え、部屋全体に優しく放つのです」
「陶器……。これが、土を焼いたものだと申すか?」
卑弥呼はその場に両膝をつき、滑らかなタイルの表面を指先で撫でた。
塵一つない、ツルツルとした感触。
「美しい……。まるで、月の光を固めて敷き詰めたよう」
彼女の頬が、部屋の温かさと高揚感で、ほんのりと薔薇色に染まる。
「謁見の間と、湯殿も同様にしてあります。もう、震えながら湯を浴びる必要はありません。壁も床も、全てこの温かい石で覆いました」
「湯殿まで……」
卑弥呼は立ち上がると、朔を振り返った。
その瞳には、かつてないほどの強い光が宿っていた。
「サクよ……この部屋にいると、冬であることを忘れてしまいそうだ」
彼女の声は、王としての威厳を保ちつつも、一人の女性としての深い感謝に震えていた。
「この温もりは、何物にも代えがたい。……礼を言うぞ」
「もったいないお言葉です。……衛生面でも、この床は水拭きだけで清潔を保てます。きっと喜んでもらえると思います」
朔が淡々と、しかし力強く答えると、卑弥呼はふふ、と笑みをこぼした。
「そなたはいつも理屈を並べるな。だが……その理屈ごときで、私のしもやけが治るなら、安いものだ」
「姉上の痛々しい足を、もはや見ずに済むのですな……」
その様子を見ていたタケヒコが、袖で目頭を押さえている。
ユズリハがそっとハンカチを差し出す。
彼女の表情も、いつもより随分と柔らかい。
「すごいじゃない、サク。女王様、あんな顔するのね」
アカネが小声で囁く。
「よかったな。アカネも手伝ってくれてありがとう」
「な、なによ急に。そんなんじゃないわ」
まっすぐにお礼を言われて、アカネが顔を赤くした。
その夜、卑弥呼は久しぶりに深く、安らかな眠りについたという。
翌朝、タケヒコが血相を変えて朔の元へやってきたのは、また別の話だ。
「サク殿! 姉上が『この床を王宮中に敷き詰めよ』とおっしゃっている! あんな高価そうなものを全部屋になど、国庫が破綻してしまう! なんとか言ってくれ!」
「……まあ、そうなるよな」
朔は苦笑し、次なる一手――コンクリートや、より安価な素材の開発――を考え始めるのだった。
白磁の床は、邪馬台国に初めてもたらされた、文明という名の「春」であった。




