面土国の王女6
出立の日の朝。
牢から出された彼女に、今やこの国の至宝となった「石鹸」が、湯と共に差し出される。
トキハはその花の香りがする白き泡で、身体とともに心の澱を洗い流した。
侍女が差し出したのは、もはや捕虜の粗末な衣ではなかった。
王女という彼女の身分にふさわしい、大陸渡りの美しく染め上げられた麻の正装。
それを纏い、蒼髪を結い上げたトキハの姿は美しく、魅力に溢れ、牢にいた頃とはまるで別人のよう。
いや、心を入れ替えた彼女は本物の別人であった。
朔の料理によって取り戻した肌の艶と血色は、その高貴な顔立ちをさらに際立たせている。
彼女は侍女に導かれ、卑弥呼の私室へと通された。
そこはガラスを通して柔らかな日差しが差し込み、鏡が光を増す、明るい広間だった。
円形のテーブルには卑弥呼が、そしてその隣には、宰相であるタケヒコが既に席に着いていた。
二人とも儀礼的な堅苦しさはなく、穏やかな表情でトキハを迎えた。
「……この度のこと」
トキハは卓の前に進み出ると、深く、深く頭を下げた。
その声はもはや憎悪に震えてはおらず、静かで澄んでいた。
「卑弥呼女王陛下。そしてタケヒコ様。私の無知と早合点により貴国に対し、長きにわたり牙を剥いておりましたこと……心よりお詫び申し上げます。そしてこの命を救っていただいた御恩、決して忘れません」
卑弥呼は、その清々しいまでの謝罪に満足げに頷いた。
「面を上げよ、トキハ殿。そなたの顔色、昨日までとは見違えたな。そなたが真の理に目覚めたこと、嬉しく思うぞ」
卑弥呼はタケヒコに目配せし、トキハに自分と向かい合う席を勧めた。
侍女に案内されたトキハは、もう一度礼をして席につくが、自分の為した無礼を思うと、なかなか顔を上げられない。
「さあ、今日はそなたの新たな門出だ。堅苦しい挨拶は良い。せっかくだから、我が国の料理長の料理を食べていくが良い。そなたがこの国で最後に味わう食事として、これ以上のものはないであろう」
卑弥呼は、楽しそうに微笑んだ。
「序列第一位、サクが腕によりをかけて、そなたをもてなすよう命じておいた」
トキハは、弾かれたように顔を上げた。
……サク?
ああ、そうだ。
知っている。
かつて、その名は噂で聞いたことがあった。
邪馬台国を、飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長させている賢者の名だ。
会ってみたいとは思っていたが、今はそんなことなどどうでも良いほどに、他の人物への焦がれる想いが心を占めていた。
そう、皮肉にも同じ名の、無策の男。
(……今、聞かねば。もう二度と……)
内心、トキハはタケヒコの隣に座れたことを神に感謝していた。
彼女は意を決して、タケヒコに顔を向けた。
「タケヒコ様……あの……」
「何かな、トキハ殿」
タケヒコの顔は穏やかで、何も読み取れない。
「……いえ。昨夜、お尋ねした件にございます……。私が牢にいた折に……その……世話を焼いてくれた……あの男の……」
タケヒコはその問いを聞くと、ふ、と視線を逸らした。
彼は何も答えない。
ただ目の前に置かれた杯を静かに手に取り、その冷たい水面を、無言で見つめているだけだった。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
トキハの全身から、急速に血の気が引いていく。
(……そうか。やはり……そうなのか……)
タケヒコは何も言わない。
その事実が、あの男は「死んだ」のだと、彼女に理解させた。
(あの連れ出された日に、殺されていたのだ……)
トキハは唇を強く噛み締めた。
目の奥が熱くなる。
(わかっていた……わかっていたのだ……)
彼女は、必死で涙を堪え、窓の外の景色に顔を向けるふりをして、ひそかに目尻に浮かんだ涙を、指先で拭った。
今は大事な会の最中だ。
泣いていい時ではない。
後で一人になってから、たくさん泣けばいい。
「さあ、来たぞ。召し上がるが良い。そなたが気に入るか、見ものだな」
卑弥呼の、無邪気な声。
侍女が恭しく、トキハの前に一つの深皿を置いた。
丸くくり抜かれた、蓋付きのパン。
「……こ、これは」
トキハは、はっとした。
手を伸ばし、パンの蓋を外す。
ふわりと湯気が上がった。
パンの中で、とろりとした何かの煮込みがなみなみと満たされている。
そこから立ち上る、濃厚で、芳醇で、どこか懐かしい香り。
……まさか……。
彼女は震える手で、パンを小さくちぎり、中に満たされた煮込みの汁につけて、口に運んだ。
瞬間。
鮮明に思い出される風景。
「……ああ……!」
牢の暗闇。
わらを敷いただけの、冷たい石の床。
絶望の淵で、笑っていた、あの男の顔。
その時の味が、今、この美しいパンの器の中で、完璧に再現されていた。
……全く、同じだ……。
あの時の……あの、味と……。
涙が、頬を伝って流れ落ちた。
あの男が、盗んできてくれた、優しい味。
命を救ってくれた、パン。
「うっ……うぅ……!」
抑え込んでいた気持ちが、堰を切ったようにあふれ出す。
「うぅぅぅ……!」
喋るなって……言ったのに……!
待ってるからって、言ったのに……!
震える自分を温めてくれた、そして、心の安らぎをくれた人。
彼女の手には、まだあの男を抱き、頭を撫でていた感触が残っている。
身体はつい昨日のことのように、あの男の温もりを覚えている。
だから、どうしても涙が止まらない。
――あの男が、冷たくなってしまったのだと思うと。
「ううぅぅ……!」
嗚咽が止められなくなった。
あれが、最後だっただなんて。
私、お礼も言えなかった。
お別れの言葉も。
それどころか、まだ面土国を案内するのを楽しみにしている私がいるの。
「うああぁぁ……!」
その時だった。
「――お口に合いましたか、トキハ様」
穏やかで、少し低く、そして温かい男の声がした。
トキハは、はっとして顔を上げた。
涙で滲んだ視界を、手で擦って、確かめる。
そこに立っていたのは、ほかでもない。
この国の誰よりも気高く、白衣の正装を凛と着こなした男が、穏やかな笑みを浮かべて、立っていた。
「……あ……」
トキハは驚いて、言葉も出ない。
「申し遅れました。王宮料理人のサクと申します」
「……さ……?」
彼女はただ目を白黒させ、目の前の朔と、隣で何食わぬ顔で酒を飲んでいるタケヒコと、そして、全てを知っていたかのように、楽しそうに微笑む卑弥呼を交互に見つめることしかできなかった。
朔は深く、頭を垂れた。
「この度は騙す形になってしまい、申し訳ありませんでした。面土国の第一王女、トキハ様。あの状況では、あれが、あなたに食を受け入れてもらうための最善だと判断いたしました。どうかお許しください」
「……あ……」
トキハの目に、また涙があふれた。
生きていた。
安堵と、喜びと、そして孤独な牢でずっとこの人を想って苦しんだ、切ない想い。
その全ての感情が、一度に爆発した。
「……生きて……!」
彼女は椅子を跳ね飛ばすように立ち上がると、女王の御前であることも忘れ、そのまま、一瞬たりとも目を離さず、朔の元へと駆けた。
「サク!」
「――え?」
そして、その驚いて目を見開く朔の胸に、思い切り飛び込んだ。
「………!?」
朔は、突然の衝撃と、腕の中に飛び込んできた、柔らかくも力強い感触に、石のように硬直した。
「と、ととと、トキハ様?」
「……生きてた……ああ、よかった……! 生きて……馬鹿ぁぁ!」
トキハは朔の胸に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくっていた。
「馬鹿……馬鹿、馬鹿……!」
「す、すみません……え?」
広間は、静まり返っていた。
「……なんだ、この展開は? 話が違うではないか」
卑弥呼が浮かべていた笑みを消し去り、眉をひそめて、タケヒコを見る。
タケヒコは、飲んでいた酒を、危うく噴き出しそうになっていた。
「………」
ユズリハは、壁際で、朔を鬼睨みしている。
「会いたかった……またこうしたかった……!」
トキハがその涙に濡れた顔を上げ、朔の首に両腕を絡めると、喜びのままに朔の頬に自らの唇を強く押し当てた。
「あ……」
頬に柔らかく、温かい感触を残された朔は、ついに思考が停止し、顔を真っ赤にして硬直したまま立ち尽くした。
「……ふーん……」
「……ほう?」
ユズリハと卑弥呼の顔が、引きつった。
「……どうやら、サク。そなたは料理だけでなく、随分と手厚い『もてなし』を、我が国の客人にしてやったようだな……? 聞いていた話と違うようだ。詳しく聞かせてもらおうか」
「私も訊きたいことができた」
卑弥呼のどこか棘のある言葉に続いて、朔の真隣にやってきた、棘どころではないユズリハが、逃さぬよう朔の腕をがっしりと掴んだ。
「今、聞き捨てならぬ言葉があった。『またこうしたかった』とは何を、だ?」
ユズリハが、目の前から朔を睨んでいる。
「ひぃ」
「……サク」
トキハが腕に力を込め、離れかかった朔の気を引く。
「まさかお前が、こんな素敵な人だったとは……なおさら離せないから」
トキハはそのまま、しなだれかかる。
「と、トキハ様」
トキハは朔に密着したまま、すぐそばから朔を見上げた。
「……ところでサク。私はここで『全部』話してもいいけど、どうする?」
「ぜ、全部って、どこまで、なにをした!?」
卑弥呼とユズリハの目が、さらに吊り上がる。
タケヒコが、酒を吹いた。
その言葉に朔は慌てふためき、トキハは朔の首に腕を回したまま、嬉しそうに笑うのだった。
このたびはここまでお読みくださり、ありがとうございました。
第四部はいかがでしたか?
卑弥呼のシェフはまだまだ続きます。
トキハちゃんは今後も折を見て登場しますので、よかったら今後もお楽しみくださいませ。




