面土国の王女4
食べない朝食が下げられた後、トキハの予想通り、衛兵たちが牢にやってきた。
だが彼らが向かったのはトキハの牢ではなく、男の方の牢だった。
「立て、罪人! 貴様を尋問する」
衛兵たちはサクを荒々しく引きずり出し、連れて行った。
トキハはその光景を、冷ややかに見つめていた。
(例の隠し場所を吐かせるつもりなのだな。吐くなよ……)
それから一刻ほどして、サクは再び牢へと投げ戻された。
昨日よりもさらに、ぐったりとしているように見えた。
「言ってないな?」
トキハはひとけがなくなるや、すぐに訊ねた。
「へ、言うわけないだろ」
痛みで顔を歪めながら、強がる男にトキハは笑顔になる。
「遅いから心配したぞ」
「へへ。それより、また取ってきたぞ」
サクはまた、懐からパンを取り出した。
「……お、おまえ、いったいどうやって」
トキハは目が点になる。
「尋問されるのは俺一人じゃなくてな。前後に待ち時間があるのさ。一緒に行水もやるから、兵隊さんも忙しいらしくて、俺のそばに居ないことも多い。全く馬鹿な話だ。となると、目を盗んでこうやって近くのものをくすねることもできるわけだ」
ほら、と男がトキハに差し出す。
「サク……お前もしかして、すごいヤツなのか」
「なんだよ、今更気づいたのか」
アハハ、と二人で、格子越しに笑い合う。
「ほら、気づかれる前に食べちまえ」
「わかった」
トキハが今日食べたパンは、パン生地の柔らかい、たまごマヨベーコンパン(卵+マヨネーズ+からし+豚バラベーコン)だった。
……もぐ。
もぐもぐ……。
「これは……おいしい!」
昨日の硬めのパンとは違い、極めてふわりとしている。
優しい食感で、噛むと、ほのかな穀物の甘みが広がる。
しかも、パンの間から口の中に流れ込んできた、なめらかなもの。
昨日とは違う、生まれてこの方一度も経験したことのない、味の洪水だった。
「このプリプリしたものはなんだ」
「鶏の卵を茹でたものだろう。それ、おいしいよな」
「へぇぇ」
鶏の卵を茹でると、こんな美味なものになるのか。
柔らかいパンが、濃厚なタマゴサラダを受け止め、ベーコンの芳醇な香りと塩味を包み、口の中で、完璧な一体となって溶けていく。
トキハはついつい、今日のパンも4つも食べてしまった。
◇◆◇◆◇◆◇
そうやって、二人だけで過ごす日々が続いた。
「卵ってこんなおいしいんだな」
トキハは、てりやきチキンとベーコンエッグを挟んだパンを頬張っていた。
照焼きソースが甘くて癖になる。
「もしかして、初めて食べたのか」
「白い海鳥が産む卵を食べることはあるが、こんな凝った食べ方はしない」
「この鶏っていうやつは、ちゃんと餌をやれば、毎日卵を産んでくれるのさ」
「ま、毎日? それだけで食料になるじゃないか」
「そう。国の鶏舎では1000匹以上をまとめて飼育してるはずだ」
「そ、そんなに……」
トキハは開いた口が塞がらない。
「食べたきゃ、トキハの国でも同じことをやればいいのさ。なんなら盗んでやるぞ?」
「ハハ。盗んでもらっても、私はここから出られないさ。……でも」
トキハが視線を逸らし、扉の方を見つめる。
「でも?」
「もしその鶏ってのをうちの国の食糧にできたら、みんな……喜ぶだろうな……」
ほんの七日前まで、トキハの顔は死人のそれと見紛うほどだった。
頬は飢餓によってこけ、ひび割れた唇には色などなく、その虚ろな瞳の縁には深い隈。
肌はまるで乾いた冬の大地のようにカサカサで、腕の深い傷は化膿しかかっていた。
それが、朔の料理(尋問という名の外出中に作られる)に含まれる、高純度の滋養を吸収し始め、乾いた砂漠が慈雨を吸い込むかのように、彼女は変わっていった。
「サクはもしここから出られたら、なにがしたい?」
「……そうだな。面土国ってとこに行ってみるのも悪くないな」
サクは薄汚れた天井のシミを見上げながら、言った。
「あは、もしふたりとも生きて出られたら、私が連れて行ってやるよ」
「へぇ、王女様の案内か。夢みたいだな」
「きれいな景色がいっぱいあるんだ。盗人のお前が更生するくらいには」
「そりゃ楽しみだ」
唇は赤みが戻り、肌はふっくらとし、薄い紅を差したかのように温かさが宿り、しっとりとした潤いと艶が蘇っていた。
あれほど深く落ち窪み、虚ろだった瞳にも再び光が灯った。
それは捕らわれる前のあの猛禽のような、鋭い光。
朔の料理の「祝福」により、傷の治癒も信じられない速さで促進されており、腕の傷口は早くもきれいに閉じ、僅かな痕を残すのみ。
彼女は戦士として、そして王女としての本来の力強い美しさを、取り戻しつつあった。
「サク、もう寝るのか」
「なんだかすごく眠いんだ……」
「寝るな。私が面白い話をしよう。実は私の国の海辺には、満月が海に光の道を作る場所があってな。……そこを男女が一緒に訪れると、良いことが……」
「………」
「……おい、サク」
「……むにゃ? おい……手を引っ張るのやめろ、寝れないだろ」
「ふふふ。寝るな」
「……トキハ。いつまで手を絡ませてるんだよ」
「だって、離したら寝るだろう?」
トキハは恋人握りした手を離そうとしなかった。
格子越しのふたりだけの世界は、トキハにとって決して悪いものではなかった。
むしろ、今までにない幸せを感じることすらあった。
◇◆◇◆◇◆◇
そんなある日。
その日は季節外れの冷気が、地下の石牢に忍び寄っていた。
昼間は蒸し暑いほどだった空気が、日が落ちると同時に牙を剥き、石壁の冷たさと相まって、囚人の体温を容赦なく奪っていく。
「……っ、う……けほっ」
闇の中で、トキハは身を固くして震えていた。
傷が痛むのではない。
芯から冷え切った体が抵抗力を失い、風邪にいいようにされているのである。
喉の奥からせり上がってくる咳を、彼女は必死に噛み殺していた。
「……おい」
隣の牢から低い声がした。サクだ。
彼はガサゴソと衣擦れの音を立てると、格子の隙間から何かを押し込んできた。
「使え」
それは、分厚い熊皮の毛布だった。
卑弥呼が「朔が風邪を引いては、国の損失になる」と言って、牢に入る際に持たせた品だ。
重たいが、極めて暖かな品である。
「……いらない」
トキハは震える声で拒絶した。
「馬鹿を言うな。歯の根が合ってないぞ」
「私が使ったら、お前はどうするのだ……こほっ、こほっ!」
言葉の途中で、抑えきれない咳が溢れた。
「そこで死なれたら、俺の話し相手がいなくなって退屈なんだ」
「私はお前のようにひ弱にはできていない。明日には治る」
頑ななトキハの態度に、サクは大きくため息をついた。
そして、闇の中で何かが金属と擦れ合う、硬質な音が響いた。
カチャリ、コトン。
乾いた音と共に、二人を隔てていた格子の扉が、軋んだ音を立てて開いた。
「な……!?」
トキハが驚愕に目を見開く中、朔は自分の牢から出て、当然のようにトキハの牢へと入ってきた。その手には毛布が抱えられている。
「き、貴様、どうやって鍵を……! な、何をするつもりだ!」
「静かにしろ。衛兵に見つかる」
朔はトキハの隣にドカッと腰を下ろすと、持ってきた毛布を大きく広げ、強引にトキハの体に巻き付けた。
そして、余った部分で自分自身も包み込む。
「これでいい」
「なっ……近い! 離れろ!」
トキハは顔を真赤にして、声を殺しながらも叫ぶ。
「騒ぐな。こうやって二人で中に入った方が効率がいい」
朔はそう言うと、トキハに背中を向けて、その背に自分の背中を押し付けた。
「背中合わせだ。これなら武人の誇りも傷つかないだろ。……寝ろ」
「しかし」
「暖かいだろ」
「それは……そうだけど」
「いいから寝ろ。明日も尋問(という名の料理)があるんだ」
背中越しに伝わってくる朔の体温は、驚くほど高く、そして温かかった。
抗おうとしたトキハだったが、その「温かさ」に包まれた瞬間、強張っていた筋肉が嘘のように解けていくのを感じた。
(温かい……)
それだけではない。
知らなかった。
人の肌のぬくもりが、こんなにも安心感をくれるなんて。
物心がついてから、一度たりとも満たされなかったものが、満たされていく感じがした。
「………」
凍えていた身体が、警戒心が、じんわりと溶かされていく。
トキハはその温もりがとても心地よくて、いつしか身を委ね、深い眠りへと落ちていった。
◇◆◇◆◇◆◇
翌朝。
トキハが目を覚ますと、体調は嘘のように回復していた。
体の節々の痛みも消え、気力も充実している。
「……サク、礼を言う。おかげで良くなった」
彼女が隣を見ると、サクはいつのまにか自分の牢に戻り、毛布なしで壁にもたれかかっていた。
「ぐすっ……あー、いや、別に……ずずっ」
サクの鼻は赤く、目は潤んでいた。
時折、苦しそうに鼻をすすっている。
「おい、サク。まさか……」
「なんでもない……。ちょっと埃っぽかっただけだ。へぶっ!」
明らかに、風邪が移っていた。
昨夜、トキハに毛布の大部分を譲り、自分は背中だけの温もりで寒さを凌いだ代償だった。
「すまない……私のせいで」
「気にするな。これくらい、気合いで……ずずっ」
強がるサクを見て、トキハの胸は締め付けられるようだった。
◇◆◇◆◇◆◇
その日の夜。
サクの症状は悪化していた。
彼は毛布にくるまっているが、ガタガタと震え、荒い息を吐いている。
「サク、大丈夫か」
「うぅ……さみ、くない……」
「おい、サク。もっとこっちに来い」
「………ここでいい」
うわ言のように呟くサク。
トキハは、居ても立っても居られなかった。
彼女は牢の隅に落ちていた、朔が昨日使ったであろう細い金属片を拾い上げた。
使い方は見ていない。
だが、サクならここをこうするはずだ。
武人の鋭敏な感覚と、観察眼。
そして何より、「彼を助けたい」という執念が、彼女の指先を動かした。
カチャリ。
奇跡的に、鍵が開いた。
トキハは音もなく格子を開けると、迷わず朔の牢へと足を踏み入れた。
震える朔の元へ膝をつく。
「……トキ、ハ……? なんで、こっちに……」
熱に浮かされた朔が、虚ろな目で彼女を見る。
トキハは何も言わず、朔の毛布の中に潜り込んだ。
「ば、馬鹿……移るぞ……」
「移らない。元は私の風邪だから」
トキハは二人の体を毛布で包み、震える朔の体を背中から抱きしめた。
「今度は、私が温める番だ」
トキハの体温は、高く力強いものだった。
朔の冷え切った体が、彼女の熱に触れ、少しずつ震えを止めていく。
「……合理的じゃないな」
朔が、小さな声で憎まれ口を叩いた。
「黙って寝ろ。……借りは、返す」
「………」
そうしているうちに、サクは温かさに包まれ、すやすやと寝息を立て始めた。
「こうした方が、温まるから」
寝たのを確認して、トキハは朔の正面に位置を変え、脚を絡ませ、上半身を密着させ、両耳を抱えるようにサクの頭を自分の胸に抱き寄せ、愛おしむようにその髪を撫で続けた。
「治りますように」
石牢の冷たい闇の中で、二つの鼓動が重なり合い、確かな熱となって夜を溶かしていった。
◇◆◇◆◇◆◇
数日後。
その日も何ら変わらず、サクは、昼餉のあたりに尋問から戻り、トキハにそっとパンを与えた。
「うん、今日のもすごくおいしい。挟んであるこの肉はなんだ?」
「挽いてこねてあるらしい。そういうのをハンバーグって言うんだ」
「へぇぇ……肉汁が溢れてくる、ふしぎな肉だ。野菜ともよく合っていて……」
「おいしいだろ。それをパンに挟んだものを『ハンバーガー』って言うんだ」
「相変わらずよく知ってるな」
彼女はその未知の美味さに、夢中になって平らげるようになり、それが日々の楽しみにさえなっていた。
「入っているこの野菜はなんだ?」
「あぁ、薄っぺらいのは玉ねぎっていうんだ。赤いのはトマト。肉料理によく合うから使う……らしいぞ」
「へえぇ、好きだな、この感じ」
しかし、その日の午後は違った。
ギイイイッ……ゴトン!!
背後で、高床倉庫の、あの重い扉が乱暴に開け放たれる音がした。
二人が驚いて振り返ると、そこには衛兵の長であるハヤトが、数人の部下を引き連れて冷たい視線で立っていた。




